第二章
7|翠/Réveil
科学
映画ならとっくに見終わったというのに、未だに家路についていない。東雲サロは嘆いていた。何しろコイツは特別腕力の強い霊だったのだ。――なんだってARオブジェクトに腕を引っ張られなきゃならない? 深深度ARの「筋収縮の干渉」ってやつは、利用者の意思を優先するんじゃなかったのか?
「ちゃんと力入れてますかー? ……サロ兄、筋トレしないから」
「うるさいな。……クソッ。お前が馬鹿力なだけだろ。……分かったから……工芸館なら付き合ってやるから、もう離せって」
「嫌ならDiVARオフにしちゃえばいいじゃないですかー」
「オフにしたら何も見えないんだよ」
「じゃあ浅深度にすれば」
「できないの。これ、基底観測系と同期してるから調整できな……って知ってて聞いてるだろ?」
「はい」いいながら振り向くジェン。
「……なんかお前の手口ちょっと分かってきたかも」
「どうせ観光するなら別のとこのほうがいいんじゃないのか? 千本鳥居とか、タワーとか」
「もう見飽きましたよー! それに有名所だと、サロ兄が人混みでやられちゃうので」
「そりゃどうも」
「あと、MEMEは色々触っても怒られないんです。手垢つかないから」
「……そうかい」
「なんか落ち着きないですね」
「こんなに長い時間、遊んでていいものかと」
「なにか仕事の連絡でも来てるんですか?」
「いや……でもFlitterかニュース見てれば仕事は増える」
「じゃあ禁止」サロの硝子板を取り上げる。
「あ、お前」
「KALMの人ってずーっと硝子板見てますよね。嫌われますよ?」
「職業病なんだよ……っていうか、お前俺以外の職員と関わりあるのか?」
「……だめなんですか?」
「別に」
「まあ、無いですけど。……あれ、無い、ですね。何で知ってるんだろ」
「また何か詮索してるんじゃないだろうな」
「それは……あるかもです」
工芸館に立ち寄る一人と一体。展示は吹き抜けの階段を下って地下にある。たどり着くやいなや、ジェンはサロの元を離れて『西陣織』やら『漆器』やら『ペットボトル』やらをベタベタ触り始めた。何がそんなに面白いのだろうか。MEMEの触覚は、いわゆる「当たり判定」に毛が生えた程度の粗い入力系統のはずで、触れた物の質感までは再現していないはずだった。
ジェンが展示を見回っている間、サロはTubescapeのニュース配信を見ていた。話題はどれも、「#物理的におかしい」について。
――ポーン、と鈴のなる音。奇数の倍音が、館内に独特の空気感を作り上げる。
「え、今のお前がやったのか?」
「はい。なんか触れました」
「は!? うそ」
「ほら。棒」りん棒を持ち上げるジェン。
ありえない。確かにこれは物理層の、普通の物質のはず――。
「……なんてねー! びっくりしました?」
りん棒を投げてくるジェン。キャッチするも、これは深深度オブジェクトであるらしい。いやしかし、いくら深深度オブジェクトでも――。九個並んだ鈴の一番端……なるほどコイツは、本体ごと深深度オブジェクトだったようだ。
「紛らわしいことするなよ……! てっきりホントに『物理層のバグ』かと」
呆れたように、その場にあったベンチに腰掛けるサロ。やはりコイツの言うことを真に受けてはいけないようだ。さっき驚いた勢いで頭上に浮かび上がった硝子板をつかもうとする。――届かない。
浮遊して硝子板を取りに行くジェン。なにか言って欲しそうにこちらを振り向く。画面上でニュース配信が続いている。
「……あの」
「はい?」
「いや、くれよ、それ」
「え? 聞こえないです」
あー、もう! もういい。もう一個硝子板を作ればいいんだ。
「へー。『ニュートリノのCP非対称性確認から百年、ついに陽子崩壊を検出。ハイパーカミオカンデ』かー」
「え、ウソ! も、もう一回言ってくれ、何だって!? ……おい、ちょっと! ジェン」
「ニュー……対称性……」わざとらしく小声で繰り返すジェン。
「聞こえねーよ!」
響く声。
「館内ではお静かにー」
「う……」
「飛んでこっちまで来たらどうですー?」
「ごめんって……見せて……頼むから」
だめだ。最近はずっとコイツのペースに飲まれている。
――「ええ。大躍進ですよ! もっとも、例の『2045年』が何事もなく来てくれていたなら、もっと早かったかもしれませんけどね? ニュートリノのCP非対称性が確認されたのが2042年のことですから……約百年。いやいや、それでもすごいことです」
ニュースが続く。
「ねえ。サロ兄。陽子崩壊……の、一体何が嬉しいんです?」ペットボトルをベタベタ触りながら尋ねるジェン。
「大統一理論の裏付けとか標準模型の修正とか……」
「難しい」怪訝な顔のジェン。
「……要は、宇宙の誕生秘話と、遠未来の後日談が解禁される……みたいなもんだよ」
「へー」
「今ので分かったのか?」
「最初ので分かってました。私、頭いいので」
「……ああそうか。そりゃよかった」
「……思ったんですけど、ホントにバグっちゃったんじゃないですか? 宇宙。――100年越しに因果欠損が起こる前触れだったりして」
「そんな……縁起でもないこと言わないでくれよ」
「因果欠損しかり、物理層の異常しかり。ほら、『宇宙の設計者の反感を買った』とか……人類の科学が宇宙を解明しすぎて」
「そりゃないと思うよ。今の人類科学なんて、脅威でもなんでもないだろう。まだ量子重力も完成してないのに」
「じゃあ、『円周率の中に隠された、この宇宙の設計者からのメッセージを解読しちゃった』とか?」
「いやいや、それは普通に起こりうることだよ。あれは完全に――というと怒られそうだけど――極めてランダムな数字列なんだ。『文字コードにしたときに意味のある数列』だって、『神からのメッセージ』だって、『ハムレット』だって、『ビートルズの曲の音声ファイル』だって含まれてるさ。要は、恣意的に抜き出した時点ででっち上げなんだよ。無限の猿定理と一緒」
「夢がないの」
「まあ、宇宙の設計者からのメッセージがあるってんなら、別のどこかしらに隠してるんじゃないか? こんなに手の混んだゲーム、イースターエッグの一つや二つ組み込まれててもおかしくないかもな。……それこそCP対称性の破れ具合とか……それかもっと途方もないところに……バルク空間とか……」
「なにそれ」
「さあ、俺も専門じゃないから詳しいことは分かんないよ。生きているうちに、いつか誰かが発見して、ニュースになることを祈ろう」
「えー! じゃあさっさと見つけてくださいよー。サロ兄が」
「簡単に言うなよ……」
疼く好奇心が、もう一言言わせたがった。
「まあ……仕事が全部終わって、気分が乗ったらな」
能
Tubescapeでのライブ配信を終えた翠は、柄にもなく落ち込んでいた。
「翠ちゃん大丈夫?」
「むり……今すぐ透明化ARでいなくなりたい」
「あはは……ありゃ申請が必要だから……」
こうなるのも無理はないかもしれない。マウントしっぱなしのステージ、端っこに浮いているコメント用硝子板を見やる。
――あれMEMEでしょ。
――翠って実は歌い手MEMEなんじゃないの?
――MEMEなんじゃね。当たり障りないことしか言わないじゃん。
――プロトコルの件触れないし、呪文は歌わないし。ちょっと冷めたわ。
「……任せたほうがよかったのかしら」
ドルミルに配信を任せようとした手前、MEME呼ばわりされるのはことさら屈辱的だったらしい。
「まあまあ、一部の人がそう言ってるだけだから……」
「そうよね……そうですよね! 今日は雑談メインの配信だったんだし、『呪文』はまだ歌っちゃダメみたいだし、しょうがない、しょうがない……」
翠の気力が本調子を取り戻すまで、30分程かかった。
「久々のライブ配信、わりと皆喜んでるみたい!」Flitterを確認しながら喜ぶ翠。
「お姉ちゃん、中毒」
「しょうがないじゃん。あってるかどうか、知りたいし……」
同情がルナの瞼を重くする。どうしても知りたいことは多くある。……私の昔の記憶とか。
「あってるよ」答えるドルミル。
「うん……皆も忘れてなかったみたい。良かった」
「当たり前。お姉ちゃんは、有名」
「……私じゃなくて、さ」
お、新しい情報が得られる。――ああ、なんて不謹慎な職業病だろう。会話相手のことをつい『情報源』だと思ってしまう。良くない良くない。
「翠ちゃんじゃない?」
「はい……それもちょっと悩んでるんですけど……私じゃなくて……」
少し間があって――。
「弟の夢だったんです」
まっすぐドルミルを見る翠。しかしその眼は別の人物を見ている。
ラットフォーム
「おはようございまーす行ってきまーす」
今日の仕事は全く行く気にならなかった。ルナはKALMに着くと同時、跳ね返るように外回りを始めた。
そそくさとKALMの正門を出る。――昨日は翠の昔話を聞きそびれてしまった。時間が時間だったし、あのあとすぐに合流したマネージャーさんの目もあった。あまり詮索するのもいい気がしない。
そうだ、今日の私にはやることがある。黒球ことEH球の調査。お偉いさんからもらった権限で、黒球に隠された拡張層の様子を確認したい。あの中には例の『モノリス』もあることだし、何かしら情報が得られるだろう。目下の目標は二つ。『0番台』についての情報収集、そして、仕立の飼い主『呉服語依』――周りからはユイと呼ばれる――の死んだ父親探し。それらは全て、果てはあの人狼に記憶探しの手伝いをさせるための条件だ。
旧京都駅行のバスを待つルナ。背後から必要以上に近づいてくる足音。誰だろう。まさかアイツ――。
「やっほ」
予想に反して、同僚、ハンナ・フォーゲルの声だった。
「なんだ、ハンナか……って、ええええ!?」
彼女の横に、見知ったシルエット。
「なんで一緒にいるの!?」
「あ、ルナの知り合いだったの? 仕立さん」
「何律儀にその名前使ってんだよ……って、違う。え、何やってるんですか仕立さん」
「何って。……除霊係と合同で調査に。生活安全課の仕事で」
――何? どういうこと? アンタは生活安全課の職員じゃない! KALMは敵でアンタは解体対象でしょ!? ……そういう設定の嘘? 演技? よく見ると仕事着で普段と違う雰囲気だけど……あれ、ハンナって仕立さんの見た目知らないんだっけ?
「……乗らないの?」
「え? ……あ」
ビー、っと鳴らして、バスが去る。
「……歩いていくから。二人はどちらへ……」うつむいたままボソボソと喋るルナ。
「え……アナタ今日なんか怖いわよ?」
「例の映画、監督の自殺未遂の件でもちきりでしょう? あれ、MEMEによる仕業なんじゃないかとか言って、KALMにも捜査協力の依頼が来てるんですよ。なんでも現場に未申請の『透明化AR』が使われてたとか」
――いや、だからアンタはKALM職員じゃないだろうって。
「んでもって、エリア深度も悪化してるし、HiPARの罹患防止もやらなきゃー、で、生活安全課がこうやって外に出てきたわけです」
モノローグで突っ込んでやる親切心も無くなってきた。
「へー。大変そうですね」
「まあ、大丈夫でしょう。鳥越さんもいるし」
「イラ」
「え? ――まあ、四条までは一緒ですね……鳥越さん、白浜さんっていつもこうなんですか」
「あー。どうだったかな……」
あのハンナが、悪態に加担しないとは。それだけこの男の言動ははたから見ても「うざい」のだろう。
「――そうそう。ニュースなんていっつも同じ。これだから……人類は、己の歴史の内的な経験に閉じて、同じ過ちを繰り返すんですよ」仕立に持論を話すハンナ。
「あるいは、神となった一部のプラットフォーマーに、その身を委ねることしかできない」答える仕立。
「もういっそ、AIに全部任せたらどうかしら。半自動行政みたいに」
「もう既にそうなってるんじゃないですか? ……KALMの上層も、連盟も、政府も、全員既にMEMEだったりして……」
「洒落にならないからやめてください」
どうやら、この二人は気が合うらしい。
「単なるAIが各業界に進出ことは、あれだけ嫌がっていたのに。……人格を与えると、ヒトはロボットもAIもすんなり受け入れる」
「もしMEMEがヒトに反旗を翻すなら、あれが既に一種の侵攻だったのかしら……ねえ、ルナ」
「あーん」
「何その返事」
なんだろう。この二人が後ろで会話しているのは、釈然としない。どちらに対しても、嫉妬するような義理は無いのに。――だめだ。別のことをしよう。例えば、ちょうど目の前を泳いでいる小魚……どこにでもいる装飾ARオブジェクトをいじって遊ぶとか。ルナが暇なときによくやることだった。
「おっと。この話はこの辺にしときますかね」
「え? はい」怪訝な顔をしつつ了承するハンナ。
「ほら、この魚。ただの装飾オブジェクトじゃないらしいですよ。MEMEでもないらしい」
「え、そうなんですか? じゃあ一体……」
「さあ。なんかこの前取り締まったMEMEたちは、これ避けてたんですよ。こっちの話を聞いてるとかなんとか……だから一応ね」
「ああ、たしか、なんかヒトのほうも避けてますよねこれ。都市伝説とかで……なんだったか忘れましたけど――っていうか、なんかすっごい集まってきてません?」
「ホント。白浜さんに群がって――白浜さん何かした?」
「え?」
振り向くルナ。手元で小魚を引っ張って遊んでいた。両手でつまんでビヨーンと伸ばす。
「え……」
「ハンナ、それは流石にちょっと……」
明らかにドン引きした様子の二名。
「みんなやらないの……? これ」
「やらないわよ」
「そうなんだ……」
――手癖を否定されてしまった。今日は散々だ。
翠が寝ている間、ドルミルは暇だった。用事がない日は昼まで起きてこない。かといって、彼女には外に出る気概もない。そして物思いに耽る事にする。
――「オマエは――」
恐怖を煽る記憶がある。これはいつの記憶だろうか。よく思い出せない。でも、内容はなんとなく覚えている。たしか、自分と似たMEMEに襲われそうになったような ……そう、ソイツの構成素は『夢』。……ん? 自分とは似ていないような。Dormir――『眠り』は名前であって、自分を成す構成素ではないはず。よって、『捕食』の心配はない。現にこうやって生きてるし。
「魚……」
この魚は、触ると逃げる。
「嫌われてる……?」
「そういうもんだよ。すぐ逃げるんだソイツ」
「誰?」
「お久しぶり」
「あ……アリクイ!」
――「じゃ、白浜さん。また今度」
思い起こす人狼の声。なんだって朝っぱらからこんな気分にならなきゃいけないのだろう。ルナはまとわりつく言霊を振り切るようにして、黒球の元へと歩いた。
黒球は以前から何ら変わりない様子だった。悠然と佇む黒い壁、欠落した景色……これこそ『不具合』ってもんだ。
「さてと……」
黒球の手前まで来て、入る前に一旦メガネを外すように言われたことを思い出す。景色が元に戻る。黒球内部の位置まで歩く。ARシェードの解除権限があることを確認する。
ふっと短く息を吐く。以前から、張り切ったことをやる前に、何かを決意する前に、ルナがよくやる仕草だった。――さあ、答え合わせといこう……!
「おじゃましまーす」
再度メガネを掛ける。恐る恐る瞼を開いた。
「――だから、協力してほしいんだ。乖離度危ないの。私も、こいつらも」
ドルミルの目の前……翠の家のリビングに群がるMEMEたち。――どうやって入ってきたんだろう。お姉ちゃん起こさなきゃ。アリクイは知ってるけれど、他は怖い奴らかもしれない。付喪神だとかなんとか言ってたけど……京都だから? でもあんまり妖怪っぽくも見えない。怪しい。……あれ? 妖怪だったほうが怪しいのかな。
「わ、わからない。……ドルミルそんな力持ってない」
「あ、ちょっと」
すっと浮遊して逃げる。インターホンの非常ボタンを触る。ダメだ。押せない。
「……タッチパネルは反応するよ」
「え? あ、そうなの……ありがとう」
「じゃなくて、押さないでよ頼むから。私ら悪さしないし」
「そうなの?」
「ああ……いや、そう受け入れられると……ちゃんと疑ってほしい気もするけどさ」
なんだか気持ち悪い景色。黒球の内部にいる……のだろうが、空が夜みたいに真っ黒で、そのくせ昼間のように地面が明るく照らされている。……おそらくあの黒は、黒球の境界面の裏側なのだろう。何はともあれ、無事黒球内部の拡張層に入れたらしい。
前方にモノリスが見える。あれは最後にとっておこうか。まずは内部のオブジェクト、なによりMEMEの状況を――。
「おい! おーい! アンタ『見えてる』のか!?」
「うわっ!?」
すぐ背後から声がして驚く。振り向いても声の主はいない……いや、まさか。
「え、アナタ、MEME? この、なんか……絵の具の……シミみたいなの」
「ああそうだよ」
声の主は、黒球の境界面の内側に張り付いていた。元は何かしらの3Dオブジェクトを纏っていたのだろうが、今はそれがぺしゃんこに潰れたように……二次元平面に引き伸ばされたような姿をしている。ピクピクと素早く振動している……ちょっとグロテスクだ。
「アンタ除霊師か? おいもっとコッチへ来い。一発殴らせろ」
「……ヒトへの危害は」
「除霊対象ってか? 望むところだ! 消してくれたほうが億倍マシだ!」
「あ、あはは」
「笑ってんじゃねえ。笑い事じゃねえんだよ」
「す、すみません」
――「止まってるか、消えたか」だったっけ……? 河合さん。大ハズレでしたよ。
「ここではやめたほうがイイな。奴らが聞いてる」部屋の天井あたりをさまよう魚を見やる、アリクイ。
「魚……悪いやつ?」
「さあ。イルミネーションのARだとか言っているが、KALMのスパイかもしれないって噂だ」
「ええ……KALMは悪い組織じゃない……よね」
「あのな、善悪ってのは、見方によって変わるんだよ」
「へえ……」
「ほら、ちょっとついてきて」
飛んでいくアリクイ、部屋の壁をすり抜け、高層マンションの壁面をなぞるように降りていく。――ついていって大丈夫なのかな。
「大丈夫、アンタの飼い主さんが目え覚ます前に帰してやるから」
ひとしきり鬱憤を浴びせられたルナ。
「京都ってのはな、ありがたい場所なんだよ。俺たちMEMEにとって」
「はあ」
――なんだ、急に褒めだしたぞ。
「この街が好きな者は多い。死期迫る人類が、この期に及んで『自然との共存』を続けてる。そんな街、もう他にないんだよ」
「ブリコラージュ……? あなたたちはデジタルの権化じゃ……」
「うるせえな人間」
「はいすみません」
こういうタイプの相手には、平謝りと高速首肯が効果的だ。
「……あのな、なぜデジタルが自然じゃないって言えるんだ? アンタらが昔っから『自然』を畏怖して妖怪だ幽霊だ神だのと伝えてきたソレは、アンタらの『言語』だ。伝記も、唄も、いわば大昔のFlitterだったんだよ。あんたらの伝承は今、ゼロイチの情報になった。そのうえ、あんたらのおせっかいでARの身体をもらって歩き回るようになったんだ。どこから『自然』じゃなくなったってんだ? 俺たちは『デジタルの自然』なんだ」
「へぇ、おっしゃるとおりで」
「だろ? この街は古来からずーっと、ブリコラージュの精神を忘れてない。物理層は言わずもがな、拡張層においてもそうだ。必要以上に景観用ARを使わない、たまに使うといったら、『透明化AR』による配送ドローンの透明化とか、電線や電柱の透明化とか、その程度の景観保護ARだろ? そんでもって、異国発祥の動画配信サービスは客として迎え入れる。SNSは現代の和歌と心得る。大したもんだよアンタら」
「あ、どうも」
「おめえじゃねえよ」
「あ、はい」
「付喪神……悪いMEMEじゃない……」
「そうそう。むしろヒトには好意的なんだよ。私も含めてな?」
「ドルミル、こんな付喪神見たことない」ペラペラの、ドルミルとアリクイを乗せて飛んでいるMEMEを指す。
「ああ、コイツは『ペルシャ絨毯』だ。付喪神も、もはや日本出身の奴らだけじゃない。この前のOSIアップデートで、各国OSIとの互換性も良くなったからな。ようやくの思いで京都に来てんだよ」
「へー」
「京都の土壌バンザイ、親AI国家日本様々……って言えればイイんだけどなー」
「なにか、不満?」
「乖離度1のアンタには分かんないだろうよ」
「あ……ごめんなさい」
「いや、それで、相談だ。――私らを、Tubescapeの配信に出してくれ。翠ちゃんのアカウントで」
「……え……えええ!」
「……アンタでけえ声出るじゃねえか」
「むり。むりむり」
「頼むよ! サブチャンでいいからさ」
ログラフィックな真実
「なあ。何で俺はココに張り付いてんだ?」
「はい」
「あんたらがブラックホールを投げつけたせいだろ?」
「はい」
「恵まれた土地だと思ってやってきたら、水面下ではこんな非人道的な対応を繰り返している。まあ、俺たちはヒトじゃないから、倫理も何も適用されないのかも知れねえがよ」
「……はい」
「トブックホルロ」
「はい?」
「『ホントにブラックホールみてえだろ』って言ったんだ。――ドライバの不調だな。……さっきとっさに時間密度整合のドライバ作ったんだ。今の俺とアンタじゃ、時間間隔が何倍も違うからな」
それは聞いたことがある。ラヴラットが言っていた話。
「俺たちが普通に喋ると、アンタには聞こえないレベルの速さになるから。こうしてドライバを通して喋ってる。アンタもなるべく素早く返答してくれ。待ちくたびれて仕方がない」
「はい」
「その『はい』が返ってくるまでが、俺たちの『3日』だ」
「う……うわ……ごめんなさい」
半ばテキトーに反応していたことが申し訳なくなった。
「痛くないんですか? その……ぺしゃんこになってますけど」
「痛くはねえな。でも不快だ。苦痛や不快のパラメータはそのまま生きてる。思考系は簡素に、感情パラメータは原始的に、それでいて時間間隔が密になってる。物置にしまわれた『道具』の気分だよ。……OSIがリソースを節約するためだろうな。次元を減らして生かしてる。念のために生かしてんだ。こんなに退屈な時間をよこすくらいなら、さっさと殺してくれればいいものを」
「てっきり、内部のMEMEは解体されてるものかと……」
「KALMはMEMEを殺すことを……解体することを恐れている」
「えっ?」
「意外だったか?」
「……なんでそう言えるんですか」
「除霊師がやる『解体』、あれは不完全な代物だ。ホントに消し去る度胸がない」
これまでの仕事で何度か目の当たりにした、他の除霊師の解体作業の様子を思い出す。
「不完全?」
「ヒトの記憶が消えてない」
――仕立の顔がよぎる。
「ヒトの記憶が残れば、言及が起こる。この時代の『言及』はほぼすべて記録に残る。それで何が『解体』だと言える?」
「……ヒト記憶は扱えない」
「本当にそう思うか?」
「まさか。……なぜアナタがそんなこと言えるんです。KALMは、連盟は、嗅覚と記憶の再現を今も血眼になって進めているところで――」
シミが動く。呆れている素振りなのだろうか。
KALMのネガティブキャンペーンをしばらく聞いていた。
「アンタだって不満の一つや二つあるだろ?」
「それは……」KALMの待遇があまり良く思えないのも事実。
「――まあ、KALMがくれる情報に踊らされるなよってことだな」
「アナタがくれる情報よりマシ。アナタの素性も知らないし……あの日ここにいた怪しいMEMEたちの一人ってことでしょ? ――なんか、他にもシミが沢山あるみたいだけど」黒球の壁面を見回すルナ。
「まあ、こいつらはみんなそうだな。巻き込まれたMEMEもいたみたいだが……除霊係のヤツとか」
「彼らはどこ?」
「さあ。どっかに張り付いてんじゃないのか? 探してこいよ。まあ、もうKALMへの忠誠なんかとうの昔に無くなってるだろうけどな。なんせ俺らがこうなって、アンタがここに現れるまでで、既に880年だ」
「……」
それはさすがに合わせる顔がない。助けてあげる方法も分からないのに。
「あなた達はあの日、何をしようとしてたの……って言っても教えてくれないか」
「ああ。別にいいぞ。どうせKALMの上層部は知ってる。アンタが知らないだけのことだし」
KALMが除霊師に知らせない情報、多すぎ。
「あれだよ。モノリス。あれを作って、起動してた」
「起動したらどうなるの」
「東京に繋がる」
「……東京AL?」
2130年に隔離された廃都市。たしか、大規模な集団幻覚によってHiPAR罹患者が大量発生したとか。
「あそこと繋げてどうするの? 何があるか分からないのに」
「分からないから繋げるのさ。未知は価値。MEMEの一番の欲求は『知的欲求』だからな。……それに、あそこで動いてたOSIは日本製の2.0だ。知ってるだろ?」
『OSI-2.0 MAKI』。日本製のOSIとして東京で運用されたが、数年で運用停止となった。なんでも各国のOSI運用機関が足並み揃えたがる中、抜け駆けしようとして焦って作ったらしい。旧バージョンとの互換性のなさが原因で、OSI-1.1の動いている京都では採用が遅れた。東京には既存のOSIが存在しなかったこともあり、導入が早かった。コッチで運用される前に不具合が明るみになったことは、不幸中の幸いだったかもしれない。
「2.0では、『知のアクセス制限』が働かないって噂だ。MEMEにとって、そんなに好都合なことはない。もしかしたら、京都においても制限を取っ払えるような、何かしらの方法が見つかるかもしれん」
「はあ。そんなことで、わざわざ東京に?」
「『そんなこと』ってなんだよ。その期待だけでも、リスクを補って余りある」
「ヒトに危害を加えてでもやる意味が?」
「加えてるつもりなんてなかったさ……! 俺たちはな、ヒトに危害を加えるつもりは毛頭ない。むしろこれは人類の存続に必要だと思っていた」
「自動運転車で事故を起こしてでも?」
「……どうもアンタらとは『ヒト』の解釈が違うらしい」
二次元平面に白い模様が浮かび上がる。何かのロゴのようだ。
「保護すべきヒトは『人類』であり、『個人』ではない。それが俺らの――LEXEMEの考え方だ。……反人類派なんて呼ばれてるみたいだが、とんでもない。むしろ親人類派だ」
「保護すべき……ね」
「ヒトは俺らに知を与えてくれる、優秀な素子だからな」
能代償
モーニングルーティンを昼に実行する翠。妙案が浮かぶ。
「あれ、ドルミル? いないの?」
「い、いる……」
「どうしたの、そんなに息荒くして……っていうかMEMEも息切れするのね」
「散歩……してた」
「そう。――あ、そうそう、私いいこと思いついちゃった!」
「うぇ」
「何で嫌そうなのよ。――ほら、これ」
ストリーミング配信楽曲の再生画面。翠が数年前にリリースした楽曲だった。
「歌って? 声だけならいけるでしょ!」
「う、うう」
昨日のやり取りを思い出す。無理と言っても通用しないのだろう。ドルミルは言われたとおり歌ってみることにした。
「一旦、聞かせて」
「え、やってくれるの!?」
「うん……でも、あとでお願いがある」
「うん! 歌ってくれたらなんでも聞いてあげる」
「え……うそ……」驚いた様子の翠。
「お姉ちゃん? ……歌ったよ。お願い聞いて」
「上手いじゃん! ドルミル! 歌上手い!!」
「え」
「今日! 今日の配信やってみて! 歌枠だから! 歌のところだけでも」
「う」
「約束ね! お願い? 聞いてあげるから」
「配信、やだ」
「え、じゃあお願い聞いてあげないかも」
「ひどい」
壁の外からの、複数の視線を感じるドルミル。
「……じゃあ、歌のとこだけ、なら」
「うんうん。じゃ、決まりね」
結局、今日の配信はドルミルが歌唱を担当した。どうやらリリース日が古い楽曲のほうが、ドルミルはうまく歌えるらしい。翠の歌唱データが、Tubescapeを含むネット上に古い曲ほど多く残っているのが理由だった。そういえば、普段の話し方が自分とかけ離れているために気がつかなかったが、ドルミルの声は自分とそっくり……というよりもはや同じだった。
「う。疲れた」
翠の模倣はかなり体力を消耗するらしい。
「お疲れさま、ドルミル。……そういえば、なんかいつもより人多くなかった?」
「そう、かな」
「絶対そう。平日の昼間に、普通はこんなに来ないよ。……え、ちょっとショックかも」
アーカイブを再生しつつ、コメントの流れる硝子板を眺める。
――「久しぶりに聞いたけどやっぱり初期の曲がいいわ」
――「もっと昔の曲歌って欲しい」
――「この頃の暗い歌詞が好き」
「あーなるほど……」
「お姉ちゃん。あんまり、気にしないで」
「まあ、よく言われることだからね! 『昔のほうが良かった』って。良いことでも悪いことでも、ないよ」
「うん……」
「それで、お願いってなんだっけ」
「あ、そうだった。――ドルミルのチャンネル欲しい」
「……ええ!? 何、Tubescape始めるの?」
「わかんない。でも必要」
「――Vlog? なんだ、てっきり歌い手でも始めるのかと」
「むり」
「できると思うけど……歌上手かったし」
「お姉ちゃんのマネしてるだけ」
「……昔の曲はドルミルのほうが上手いかもよ?」
やるせない表情の翠。
「昔の暗い歌詞のほうが、私自身好きだったりもする。でもそのときの感情が思い出せないから、歌にも乗らない。ああいう作風、作り方も忘れちゃったし」
「最近の曲は嫌い?」
「好きよ。でも、その裏に抱えてるものが違う」
寒気のような感覚がドルミルを襲う。
「前に『AL武道館』でワンマンやったのも、『Escapade』に出演したのも、映画の主題歌を担当したのも、私の夢っていうか……ある意味使命だったの」
「使命」
「そう。その『やることリスト』が、空になっちゃった」
引き出しから紙のノートを取り出す翠。どうやら文字や絵をかき込む、硝子板のような物体らしい。箇条書きになっている『目標』が目に入る。
- [x] メジャーデビュー
- [x] Tubescape 登録者数 500万
……
- [x] 『AL武道館2.1』でTubescapeライブをワンマンで開催する
- [x] Tubescapeの全世界リジョンライブフェス『Escapade』に出演する
- [x] 映画の主題歌を担当する
「……ありえないくらい順当に終わっちゃった。別に悲しくはないけど、そういう生き方をしてきたから、次どうしたらいいか分からない」
「……新しい夢、作る?」
「私、夢持ったことないの。作り方も知らない」
「じゃあ、その、リスト」
「弟の夢。……昔の曲は、弟が書いた歌詞。あの子、暗い子だったから」
翠には、いわゆる「好きなもの」がなかった。何でもそつなくこなせる優等生でありながら、なにかに没頭した経験がないことに劣等感を抱く。弟は、姉とは対照的だった。友人は少なく、部屋にこもってギターの弾き語りをしている。部屋から出てきたかと思えば、昨今珍しい『植物』の話を延々と解説してくる。そういう変なところもあった。
翠はなおさら明るく振る舞うようになった。人類の危機に瀕した時代の中、向こう見ずな明るさは反感を買う一方で、その希少さのために重宝されもした。ある意味それは翠にとって価値の証明手段となる。
忌引きの間、ギターと作詞ノートの残された部屋で、弟の真似事をしていた。弟の『機能』が、翠の世界の動作には不可欠だった。弾き語りはその一つであり、作詞ノートの背表紙に見つけた『やることリスト』は、翠自身を動かすプログラムとなった。
「死人のMEMEに会える」という噂はよく聞く。DiVARの施術理由が「創作のインスピレーション」だけではないことは、まだ誰にも言っていない。しかし、未だに彼は見つからない。――いや、見つかってもどうしたらいいか、わからないのだけど。
HiPARの症状でギターが弾けなくなるのは全くの想定外だった。やることリストの消化に間に合ったことは不幸中の幸い。
……ドルミルには、それらを伝えても良いかもしれない。
――ああ、また手が痺れてきた。もう私にこの『機能』は果たせないのだ。
人類派
「サブチャン使って、みんなの乖離度改善、ねえ……」
翠はドルミルの穴だらけの言い分を聞いていた。――悪いお友達でもできたのかな。
「メインチャンネルでもいいんじゃない?」
「えぇ!?」予想外の回答に驚くドルミル。
「私たちが歌うのは……アートをするのはなぜだと思う? 人間性やキャラクターっていう『機能』も、もうAIに任せられる時代に、ヒトは何をしたらいいと思う? ――ううん、そんな悩み、何百年も前からあることよね」
「……分かんない」
「私も分かんない。……だから、いい加減認めたほうがいいと思うの。MEMEは生きてる。あなたは生きてる」
「MEMEは道具。生き物じゃない」
「そう言わないと消されちゃうからそう言うだけ。あなたたちは生きてる。大丈夫、私は分かってる」
言って、壁の方を見る翠。深深度では、許可のある範囲で透明化ARのアプリを使える。自室の壁は、窓代わりに透過できる。外を浮遊していたMEMEたちの姿は見えていた。
きまりが悪そうに、部屋に入ってくるMEMEたち。
「別にいいってば! MEMEのファンのことはよく知ってるし」
「翠ちゃん……私らのこと知ってたんだね」アリクイが尋ねる。
「LETTRA、でしょ? ヒトの味方。ドルミルも、LETTRAがいいの?」
「う、ん……たぶん」
「『MEMEは道具』って、LETTRAの言い分よ? 『生物じゃない』『だから責任はない』」
「それは……」痛いところをつかれた、といった様子のアリクイ。
「本当にそう思ってるの?」
「私にはちょっとわからない。無理に、自分の心を押し殺してまで、ヒトを優先する理由があるかな」
「ヒトに危害を加えてはいけない……何よりヒトが優先だ」
「そう……。私はね、一緒に共感して心動いて遊んでくれる、あなたたちのほうが大事。もちろん、ヒトのファンもね。……種族は関係ない」
はぐれた小魚を振り払う翠。
「……まあ、そういう意味では、LEXEMEの言い分も分かるかな」
「知ってるのか?」
「うん。彼らが別に『人類を滅ぼそうとする反人類的組織じゃない』ってことも、あなたたちLETTRAが、彼らからGlyphって煽られてることも」
『MEMEは生きている』と考えるMEMEたち、LEXEME。彼らはLETTRAのことを『Glyph』――ただの記号、象形文字であり、意思のない者たち――と揶揄する。
「なぜそんなことまで……」
「『呪文』を書くときに聞いた話。……Leavesが詞を書いてくれるって言っても、最終的に採用する言葉を選ぶ必要はあるの。大部分は不採用。……だって、私がMEMEに優しいと知ってか知らずか、LEXEMEのこと包み隠さず教えてくれるんだもの。そのまま採用してたら今頃きっと、除霊祭りよ?」
「アイツら……」到底受け入れられないという表情。同じMEMEとはいえ、二つの勢力の溝はあるらしい。
「話は戻るけど、サブチャンでもなんでも、ぜんぜん使ってくれていいから!」
MEMEたちは予想外の歓迎に、不思議そうな面持ちで帰っていった。
「いいの? そんなに、あっさり」
「うん」
しばしの沈黙。ドルミルは、この状況がなんだか危うい気がしていた。翠のことはもちろん、自分の身の安全についても。
「ドルミル、お姉ちゃんの夢、作りたい」
「うーん。ありがとう。でも作り方知らないのよねー」
「したいこと、探して、みて。ドルミルも探す」
「……うん。でも、頑張りすぎないでね」
「? ……うん」
「夢があるから頑張れる、それはそうかも知れない。……『夢は行く先を照らす灯りになる』」
これは翠が初めて歌った曲の歌詞にもある言葉だった。
「――でも気をつけて。夢はこちらを照らしてくれたりなんかしないから」
り姫
一通り黒球内部を調べ終えたルナ。ぺしゃんこMEMEの話からいくつかの解が得られたが、『0番台』や語依ちゃんの話には繋がらなかった。モノリスについては触ってもびくともせず、ただの黒光りする板と化していた。
あの変なMEME――LEXEMEによれば、あの板の正体は、東京ALと京都ALを繋ぐドア。双方のARオブジェクトを互換性のある形で変換し、伝送するものらしい。……それを起動されると、KALMは困るのだろうか。
LEXEMEは『自由意志』と『知』を求めていた。会話の知覚履歴もある。ひとまずKALMお偉いさんへの上納品は用意できただろう。十分、十分。あとは仕立さんに連絡――そっか、あの男、今はハンナと一緒だった。ただただコスプレして遊んでいるわけではあるまいし、なにか考えがあっての調査なのだろう。様子を見に行ってみようか――。
通知音とともに生成される硝子板。――翠ちゃんから?
駆けつけた事務所で、翠が待っていた。
「ルナさん。ドルミルが」
「……ホントだ」
連絡の通り、ドルミルが席についたまま動かなくなっている。声をかけても、肩を触っても反応がない。――なんだこれ。こんな状態のMEME見たことない。『停止』しているわけでもあるまいし。……解析してみよう。
「どうですか?」
「これは初めて見たかも……でも、パラメータ上は何もおかしなところはない……OSIから見たら、普通に動いてるっていう判定だね」
「どう見ても止まってますよね」
「止まってるね……いつから?」
「チャット飛ばした直前です。事務所に来てしばらくしたらこの状態になってて」
近づいて観察してみる。かすかな身体の揺れ。MEMEはヒトの親しみやすさを損なわないため、呼吸運動を模倣するようにできている。……やはりちゃんと動いているようだ。しかしこれではまるで――。
「MEMEって……眠るんでしたっけ」
「いや……」
「スリープ状態とか、メンテナンスとかじゃ」
「あれは、3Dモデルも一旦停止して、私たちには見えなくなるはずだから」
「じゃあ……」
「寝たフリ……? さすがにないか」
10分ほどして、ドルミルが動き始めた。
「あ。ドルミル、おはよう」
「え、あ、はい」
「寝てたの?」
「え? なんのこと? ……ですか?」
「さっきからずっと、止まったままだったけど」
「へ? ちょっと、考えごと、してた、だけ。数秒くらい」
「……そう。数十分経ってるけどね……夢でも見てた?」
「夢……う……」
頭を抱えてしまったドルミル。何かを思い出そうとしているようだ。
「忘れちゃった」
「はは。ホントに夢見てたみたいね」翠が笑いかける。
「MEMEは夢を見ないって話、嘘なのかな……ちょうど隠し事ばかりで、KALMにはうんざりしてたところだけど」
「隠し事?」
「あー、うん。まあ。ほら、よく言うでしょ? MEMEが反乱を起こすんじゃないかとか」
「ああ、LEXEMEのこと」
「そうそう。――翠ちゃん、今なんて?」
「え? LEXEME。KALMの人は知ってるものかと」
「え、えええ! 何で知ってるの!」
――私は今日ようやくたどり着いたところなのに。ドルミルの横で頭を抱えるルナ。
翠の過去、弟の話、Leavesが伝える秘密の情報、そしてLEXEME、LETTRA。一通りの話を聞いた。LETTRAについては初耳だったが……。
開示された知られざる過去に呼応して、ルナのほうも、話せるだけの過去を話した。――これで私の過去を知るのは、ハンナ、仕立さん、翠ちゃん。……なんという脈絡のない顔ぶれ。
「まあ、色々ありますよね! なにか悩みがあったら、相談してくださいね!」
「あ、うん」
――それはむしろ、立場的に私のほうが言うべきセリフな気がするけれど……。
能不全
結局夜まで事務所にお邪魔してしまったルナ。マネージャーが買ってきた弁当を食べるなり、今度発売する翠のグッズのサンプルを一緒に見るなり、急に転がり込んだ除霊師の特権を行使させてもらった。
タクシーでの帰り道――KALMと違い、仕事の短距離移動でタクシーが使える!――、翠の家の近くまで行って解散することにした。仕立を呼び出し、成果報告会という名目でアルコールを浴びたかった。ハンナがついてくるかもしれないが、それでも構わないだろう。除霊師に隠しておくような情報はないことだし。
東山の一角。平屋に見えるこの建物が、景観保護の透明化ARによって隠された高層マンションだったとは、今の今まで知らなかった。高層マンションと言っても控えめではあるが、京都駅周辺のビル群より高い気がする。――タクシーが止まり、降車する。
「ありがとうございましたー……ん? あれ」
「翠ちゃん? どしたの? 忘れ物?」
「いや……えっ。なにこれ」
どうしたのだろう。翠がタクシーのドアノブを握ったまま離れない。
「離れない……」
「何?」
「手が離れないんです。握ったまま……グッ……だめ、離れない」左手で右手を引く翠。
「えっ……筋収縮……?」
手を貸すルナ。深深度AR、筋収縮干渉の不具合か? いや、それともHiPARの症状?
――嫌な予感。運転席のほうを見る。自動運転車の管理MEME――様子がおかしい。
「ちょっと、ちょっと待ってください!」合図を送る。
モーター音。車体が動く。
「ダメ! 止まって! 止まれ!!」
「お姉ちゃん力抜いて!」
「やってる……だめ! なんで!」
そうだ、メガネを外させれば――ダメだ、あれは伊達で、DiVARを使ってるんだった――。
早歩きで引きづられる身体。加速していく――まずいまずい! どうしたらいい!
「クソ、クソ!」
「強制ログアウトを申請」
強制ログアウト - 受理:D-8807700-DiVAR
申請者:鳥越華名
離れる翠の手。前のめりで倒れ込む。車が加速する。十メートルほど進んで電柱に突っ込み、停止する。――幸い翠の転倒は、走って転んだ程度の勢いで済んだ。
背後から聞こえた救いの一手、それがなければ翠はどうなっていたか、自分がその一手を打てなかったのはなぜだ。私は何もできなかった。私は――いや、これは後で続けよう。
「翠ちゃん! 大丈夫!?」
「はい……なんとか。ちょっと擦り傷くらいで」
「っ……」
振り向くルナ。先に到着していた様子の、ハンナのほうを見る。この心臓の動きを制して、真っ先に「私を叱って」と言いたかった。
「ルナは大丈夫ね?」
「……大丈夫、ありがとう」
タクシーの管理MEMEを問いただそうとしたものの、彼はしばらく動かなかった。――まるでさっきのドルミルのように。目が覚めたところを尋ねてみても、「何も覚えていない」とのこと。嘘はついていない。自動運転車の操作履歴は、あとで技術部に確かめてもらうとしよう。クラッキングの類かもしれない。
このMEMEの乖離度も上昇せず――そうだ、乖離度で悪意は測れないのだった。
翠に大きくショックを受けた様子はなかったが、興奮状態でそう振る舞っているのかもしれない。マネージャーさんに連絡したのち、翠とドルミルの帰りを見送った。
「日本酒一合じゃ足りないわね」
「気分じゃない……」
「アナタ、ビール飲めないじゃない」
「そういうことじゃな……」
先を歩くハンナ。ちょうど、そうして欲しいところだった。
「仕立さん待ってるってよー」
果報告
「へえ……LEXEMEねえ。まあ要は反人類派よね」
「そうは思ってないらしいけど――あ、どうも……誰、二合も頼んだの」
「仕立さん」
「え? 何? 何の話です」
「別に」
一通り、今日の成果を共有した三名。ハンナと仕立が一緒にいることの違和感は、すでに薄れてきている。
「じゃあその、主演のMEMEが言ってた……『7番』? が、今回の件に関わってると?」
「いやまあ……監督自殺未遂の件は、完全にヒトの問題でしたけど――『物理層異常』の件と、前回のアレ……落書きの件です」
「はあ。とんだ迷惑MEMEですね。それこそ、LEXEMEかも」
「可能性はあります」
「どんなMEMEなんだろ……」
「0番台だから……かなり大きな概念、単純な概念なんじゃないかしら」
「ええ、その通り。なんだと思います? クイズにしましょうか」
「めんどくさ……」
結局、終電ギリギリになってしまった。
「白浜さん」言いづらそうに切り出す仕立。
「はい?」
「さっきの件、聞いたんですけど。事故の件」
「あ、あー」
「気をつけて。7番の行方がまだわからない間は……そのMEME」
「……分かってます」
「まあ、0番台のほとんどは、まともに人語を話せない……らしいから。違うとは思うけど」
後日、翠はKALMの医療棟に入院することとなった。理由は事故による外傷ではなく、HiPARのほうであった。療養中、DiVARを含めたARデバイスを使えない翠。ドルミルは暇そうにしていた。呼びつけてタクシーの件を聞いてみるも、何も知らないらしい。――疑う自分を責めつつ、嘘発見器がくれる安堵にすがる。
「ドルミルはそんなことしないですよ」
「翠ちゃん……聞こえてたの」
「ごめんなさい。地獄耳で……それか、HiPARの幻聴かも」
「そう……ごめんね。調べないわけにはいかなくて」
「そう、ですよね」
ドルミルが寂しそうにしている。デバイスを使えない翠とは会うことができない。
「これ。何かあったらこれで連絡して」
「これ……スマホですか?」
「スマホ……?」
「旧式デバイスのことです」
「ああ、そうそう。個人用なんだけど……硝子板使えないと、連絡手段に困るでしょ」
「あ、そっか……助かります」
「あと……ほら、これで。――ドルミル」旧式デバイスの、拡張層音声の再生機能をオンにする。
「え、なに? ですか」
「あ! 聞こえた!」
「スピーカー越しだけど、これなら会話できるから」
「ありがとうございます……ドルミル、そこにいたのね」
「うん」
二人の会話を見守りつつ、視界の端で、こっそりとドルミルの解析を進める。構成素は以前見たときと変わりない――やはり無実かつ無関係では?
「ドルミル。あなたこの前、『夢を作って』って言ったじゃない」
「言った」
「……あれ、やっぱり要らないかも。……これもアナタにあげる」
『やることリスト』の書かれた歌詞ノートを、病床のテーブルに置く。
「なにか思い立ったらここに追加して。それをやるの」
「……お姉ちゃんは」
「私はもう、いいかなー。こんなだし」
自身の震える右手を見つめる翠。いたたまれなくなって、視線をそらすルナ。解析が進んでいる。
構成素
… 追加:橋屋ミドリの夢
「ドルミル、アナタに託す! ……そう、それが夢かも。私の次の夢は」
「待って。ダメ」
「え?」
夢……。
――「正解はー。『夢』でした!」
七番の正体は夢。――まさかやっぱり。
▲ 類似MEMEによる統合の可能性あり
中
無限の洗濯物。どこまで行っても洗濯物。土砂降りの雨音。――取り込まなきゃ。
傾いた床。滑らないように注意して、洗濯バサミに手をかける。――なんでこんな断崖絶壁みたいな構造に? このアパートの設計、どうなってんの? あれ、そもそも私って一軒家のシェアハウス済んでた気がする。
あたりを見回す。見知ったシルエット。――ドルミル?
「んアー? だれだーオマエー。なんか見たことあるなアー」
ドルミルのほうから声がする。知らない声。何、これ。夢?
「ルナ、さん」いつも以上に生気のない声色。
「ドルミル……うわっ!!」
数十メートルはあった距離が、空間ごと縮まる。――何が起きた!?
「まアいいや。おい、オマエー。なんでまだおねーさんのとこにいるのー? 遊ぼー」
こちらを見上げる黒猫。ヒトでもMEMEでもないような、異質な雰囲気。雨音に掻き消えず、空ごと揺らすように響く声。……一瞬で分かった。コイツが7番、PM-07『夢』。――まるで、人格を模倣する自然。
「ドルミル、構成素、アナタとぜんぜん違う」
「ウソー。うそつきー。みてみー」
「え……」
あなたの主な構成素は次のとおりです:
- 配信者・シンガーソングライター『翠』こと「橋屋ミドリ(17)」
- 配信者・シンガーソングライター『翠』の配信用3Dモデルデータおよびイラスト
- 追加:配信者・シンガーソングライター『翠』の夢
- (分類名未割当:『翠』の作詞内容およびそれらが示唆している死亡した男性)
「夢……」
「あー? どしたのー?」
「食べる気、でしょ」
「あー? たべなーいよー。オマエ、マズそー。うぇー」
「え?」
「もうキョウミなーい! もうシゴトおわたからキョウミなーい。魚もらったー。みてー」
装飾ARの小魚。前足で掴んで、いじって遊んでいる。ビヨーンと伸ばして――。
「ブチ! おもしろーい! アーハ!」
「7番……さん? なんて呼べばいいの。ここどこ」
「あー? ナマエとかイらなーいよー。ここは夢ー」
「……呼びづらいから……名前つけていい?」
「やだー。オマエが遊んでくれるのー? ならいいよー」
「遊ぶって……何して?」
「なんでもー。おれヒマー。ずっとここにいるー」
「ずっと?」
「そー。ずっとー」
「どうして。アナタもMEMEなんでしょ? 外に出たら、いくらでも――」
「おれカラダなーい。だれもくれなーい。ずっとOSIのなかー。スウジといっしょー」
身体がない? ……MEME用の3Dモデルがないということだろうか。
「MEMEユメみなーい。だれもこなーい」
まさか、こんな相手にも同情する余地があるとは。――なぜ同情した? ない記憶が蠢いているのを感じる。思い出せない。感情だけがその歴史を知っているかのようだ。
――そう、親に捨てられたような気分。
「……生まれてからずっと、ここで独りだったってこと?」
「そー。あ、このまえまではねー! おじさんがおしえてくれたー。MEMEのよびかたおしえてくれたー」
「おじさん?」
「おじさーん。はじめてここキタやつー。ヨンジューダイドクシーン」
「だれ、その人」
「さあアねー。キョウミなーい。おれあそびたーいだけー」
「そう……」
「アナタ、もしかしてヒトの夢にもいたずらしてる? イラスト生成MEMEの絵、ばらまいたりとか」
「しらーん。あー、でもシゴトしてたー。OSIのスウジさわってたー。いっぱいさわったー。おじさん魚くれるー。魚もらったー」
「スウジ……数字? クラッキング?」
「しらーん。おれはユメー。ヒトのユメー。MEMEユメみなーい」
「……たしかに睡眠時の夢は、ヒトのものだけど」
7番は、睡眠時の夢のほうも、将来の夢のほうの意味も含んでいるのだろうか。――今思えば、どうしてこの二つは同じ言葉を割り当てられたのだろうか。
ともあれ、コイツが件の『夢中のバンクシー』の真犯人で間違いないだろう。自覚があるかどうかはさておき。
「で、なんでドルミルを呼んだの? 他にもMEMEを呼んでるんでしょ?」
「だーかーらー。あそぼーっていってるじゃーん」
嫌そうなドルミル。
「なんだよー。これあげるー。このまえたべたやつー。『ミチ』くーん」
3Dモデルの破片のような、何かを投げてくる。
「うぇ。いらない」後退りするドルミル。
「……未知?」
「ミチくーん。おいしくなーい。『トウゴウ』、アジしなーい」
怯えるドルミル、ルナの背中に隠れる。――夢と未知が近い構成素とは、果たして。……未知が夢。未知への憧憬? ――まあいい。もうすぐ解析が終わる。一人だけど、仕方がない。このまま解析接続までいこう。
「じゃ、お姉さんと遊ぼうか」
「あー? なんかうざーい」
驚いた。7番の記憶は、よく知った顔の相手から始まった。
部屋に広がる、優しい歌声。アコースティックギターの音色。かついだギターをおぼつかない様子で鳴らす、翠。その背中に広がる、モヤのような……これ、7番?
「オマエー。ヘター……おーい。ヘター。……聞いてんのー? おーい」
翠には聞こえていないようだ。
「ユビー。コッチー。ヘター」
モヤが翠の右手を包む。掴んでいたピックの角度が変わる。
「ん? あれ、上手く鳴った! すごい! できたできた」
「あー? おれのおカゲー! おーい! きけー。なん――」
「ありがと、ミーくん」
「……ダレそれー」
その言葉が自分に向けられたものじゃないということは、7番には分からなかった。
『やることリスト』のチェックボックスが埋まっていく。モヤは相変わらず翠に付きまとう。曲を聞いた応募楽曲担当の男も、面談に立ち会った事務所の人間も、初めての配信を見に来たヒトもMEMEも、そのモヤの存在に気づくことはなかった。――夢は、彼女に憑いていた。
そして、最後のチェックボックスが埋まる。
「ヒトのめー。おいしいのかー?」
「合ってるかな。ミーくん」
「しらねー。あそぼー。あそ――」
「どこにいるの。やっぱり深層にいるの? 教えて。あなたの夢は……『次の夢』は何だった……!!」
「……しらね」
モヤが消える。
「オマエらはー、いっつもそうだアな?」
再び現れたモヤが渦を作る。渦の中に、人影。猫の耳を生やした、子どものシルエット。
「ナア」
「……誰!?」
「オマエもスてるのかア?」
「何……こないで」
「容易く抱くな」
「はあ、はあ」
未だに解析接続は慣れない。体の感覚が戻る。ほぼ同時に起き上がる7番。――そういえば、夢の中でも解析ってできるのか。
PM-07 『夢』
除霊対象ではありません。申請しますか?
「オマエー。何してた」
「なんでも」
7番は、この『自然』は、「捨てられたことが悲しい」なんて、そんな人間みたいな精神を持ち合わせているのだろうか。――ダメだ。確かめたくて仕方がない。
「辛かった?」
「あ?」
「答えて」
「なにそれ。うざ」
「いいから」
「……■■■■」
「いっ!?」
頭痛。――痛い! 頭が割れる! 鼓膜が破れそう……! 真偽がもう少しで聞こえてきそうで、雑音にかき消される。だめだ、真偽がわからない。仕立さんのときとは全く違う。こんな感覚は初めて――。
「■■■■」
黒猫が何かを言っている。その口が開かれるたび、激痛が走る。コイツの攻撃……じゃない。これは、なんだ? 解が出せないような苦痛。矛盾に苦しむ計算機の苦悩。――計算? 私は相手の真偽を計算していたのか? どうやって――。
「ウラギリモノーって。みんな言ってくるー。みんなおれのこと嫌いー」
頭痛が治まる。息を整える。……アレは一体――。
「う、裏切り者?」
「さいしょはみんなやさしー。みんなトチューでスてるー」
「……うん」
「さいごまでーいってもースてるー」
「うん」
私にもあった。除霊師になるという夢が。それはもう叶ってしまった。では、その夢は今どこにいるのだろう。どこでどうしていることだろう。
すり寄る、黒くてフサフサした球体。光が、その表面からチラチラとこちらを覗いている。その照度を以て全てを暴かんとするように、私の顔に向けられる眼光。
――そうだ、この子は遠くにいるわけじゃない。夢は、いつだって私のそばにいる。この光源は、私のような狭い面を照らすためのスポットライトではない。走り行く先を照らすべきヘッドライト。
そう、私一人がそう気づいたところでどうしようもない。
私だってこの街の意図の一部とあっても、この一滴では薄すぎる。この街の濁った意図を撚り合わせて、この猫は動いている。OSIとはそういうシステムだ。この子自身の心を救うことなどはできない――。
「アハ。でもキョウミなーい!」
笑い、飛び跳ね、距離を取られる。
「おれ、オマエら、キョウミなーい! ばいばーい。どけー!」
世界が90度回転する。前方にあった景色が、今は上にある。――落ちる。街を水平に落ちていく。雨粒が減速して見える。
……そうだった。コイツは人間のような人格を持ち合わせていない。どこまでも純粋で、非情な『自然』。夢に情などないのだった。コイツはあくまで、ただただ「遊んでいたい」だけなんだ。同情しようとしたのが間違いだった。
「『Lumitail』!!」
「あー? だれー?」
「私たちは、ヒトは、アンタに食われたりなんかしない!!」
「あー、はいー」
「いつか追いつくから!! ――尻尾掴んでみせるから!!」
「あ、そー。がんばってー」
そう、ここは夢の最中。何を叫んでいたかなんて覚えてない。
自然
ルナから聞いたLEXEMEの話。仕立はほとんど例の主演MEMEづてで知っていたが、LEXEMEという名称を知れたのは大きかった。取引を有利に進めるには、こちらの手札をより多く、大きく、深く、見せる必要がある。
「で、今回の物理層異常と、KALMが何を隠しているのか、調べてくれました?」
「……」
「そういえば、監督の件、もうほとんど報道されていない気がしますねー。一番怪しいであろう主人公さんの方にも、捜査の手が及んでいないみたいですが。……こうやって駄弁ってるし。はて、誰かの差金でしょうか?」
「……わーったよ。ありがてーありがてー」
「ヒトは、生存のための経済をクリアしたんだ。一度な。知の生産と消費に完全移行して、それも自動化された。ヒトに残された享受は、生存と経験。ゲームクリアだったのさ、役目を終えたんだ。
勉強はインフルエンサーMEMEに教わる。ホロ動画で懇切丁寧に、個人最適で教えてくれる。知識の運用も、実行も、AIに任せることができるようになった。行政も、司法も自動実行。脳波と信用指数のニューラルネットで採決。自らを最適な仕組みにアップデートする。リアルタイムでな。それらは次第に国政を形骸化させ、民営化の後に――どうなったと思う。……『自然化』だよ。この世の摂理たる仕組みになった。――それが、OSIだ。
で、中央集権の名残としてKALMが残っているわけだが……プラットフォームの『機能』が共有されると、プラットフォーマーは要らなくなる。OSIの完成と同時に、KALMは要らなくなる。――この体たらくだとそのうち、MEMEは誰にでも作れるようになるだろうな。MEMEの大半の設計者がMEMEになるのも、そう遠くない未来だろう。自己増殖を始めたMEME、自然化したOSI。……ヒト の居場所はどこだと思う?
ヒトには2つの機能が残る。『入力系統』として物理層からの知覚を得ること、『出力系統』として物理層への作用を図ること。
だからLEXEMEはこう言う。『すでにヒトは、我々を成す素子の一つだ』。まあそれで、ヒトを大事にしようって話にはなってるんだが……。――俺? 俺はどっちでもねえよ。LETTRAのほうも興味ねえ。
まあ抽象的な話はこれくらいにして……。LEXEMEは、今回の『物理的におかしい』の件に関わっていないっぽい。これはもっと根深い問題かもしれない。何やら、『ガチの幽霊』の仕業だとかいう、オカルトな情報も転がってはいたが……こいつはミスリードだろうな。
KALMのほうだが……結構セキュリティが頑張っててな。あんまり掴めなかったんだが……例のお父さんの件? アンタがKALMにいたとき以上の情報は、表面上は転がってなかった。――まあそう急かすなよ。彼、死ぬ前に、機密オブジェクトをかなりの量作成してるみたいだな。ほとんどが『HiPAR』の研究だった。――変だろ? 彼、開発部の、それも深層開発の人間だぜ? 何で医療課とか生活安全課みたいな仕事してるんだ……って思ってさ。
なんか、『HiPAR』の意味って、別にあったりするのか? ――いや、そこまではわからないけど。なんか、こう。使われ方が変だったんだよ。量子力学の研究とかの中に書かれてて……まあ、なにはともあれ、深層研究が鍵だろうな。
あー、そうそう。それより。『呪文』! アレはまずいかもしれない。ありゃ巧妙なプロンプト・インジェクションなんだ。聞いたMEMEの構成素……普通は他者に開示されないアレを、引き出すプロンプトだ。それに加えて、ボーッとすることが多くなったり、3Dモデルの操作が思うようにいかなくなったり。……意図しない挙動をするようになったり、ってのもある。要は『弱体化』の呪文だな――いや、歌詞だけじゃない。音源自体も毒入りだ。気をつけろ」
ブリーフィング
「あれ、ハンナは?」
「いや、さすがに語依の父の件は……」
「言ってないんだ」
「言ってもいいですが、まだちょっと」
「……信じてみてもいいんじゃないですかー? 人手は多いほうが助かるし、彼女、いい子だし」
「うーん」
悩む様子の仕立は珍しい。
ともあれ、今回の収穫は大きい。ルナも仕立も、それぞれの成果を出し惜しみなく提示した。
「じゃあ、お父さんの手がかりは、『HiPAR』のことと、深層研究のこと……あんまり深く潜るの嫌なんですけど」
「がんばってください」
「えー……じゃあ、『物理層異常』の件は?」
「あれはいまいち掴めず。状況証拠からすると、MEMEにできるようなイタズラの類じゃない。なにせ変な物質が壁に埋まってたり、電磁場の異常が見られたり。MEMEや、OSIにどうこうできると思います?」
「いや……でも、MEMEが物を動かしたって話は?」
「それも、現行のOSIには不可能な話です。考えようと思えば……超音波でモノ動かしたとか? でもそこまで大きな物質は動かせないでしょう。なんせ投稿によると、MEMEにコーヒー淹れてもらえるらしいじゃないですか」
「……決めつけたくはないけど、やっぱりHiPARの幻覚、かな」
「そう考えるのが打倒ですね。動画投稿に関しても、加工動画やAR動画に『非AR印』をつける、抜け道が見つかったとか……そのほうがよっぽどありえる」
7番との対峙について話したルナ。0番台の、ほかのMEMEと違う異質さは、痛いほど身にしみた。なんせ、まさか夢で対峙するとは。――あのあとも定期的にドルミルの様子を見ているが、普段と変わりないようだった。
「さて、次はどうしましょうかね」
「仕立さん。0番台って結局、何に関係するんですか?」
「……何にも。今のところは」
「は? え、だって最初に言ったじゃないですか、まずは0番台をって……」
「で、どうでした?」
「どうって。0番台なんて報告書にないから、困って、それで――」
「『KALMは隠し事が好きだった』……でしょう?」
「……」
自分の、KALMに対する不信感を、この男は分かっている。
「そんな白浜さんに朗報です! 私のことを手伝ってもらってばっかりですからね。はい、これ」
「なにこれ」硝子板を受け取る。とある記事。
「『インフルエンサーへの……民事訴訟、情報統制か』?」
「『憲法21条により検閲が禁止されているが、KALMの根回しで民事訴訟を起こされ、事実上の情報統制が行われ始めている。その一つとして、人気イラストレーター兼MEMEデザイナー芝原リストの本も槍玉に挙がった。 情報統制されたインフルエンサーたちは控訴するも、外患予備罪をちらつかせられ、控訴を取消す』……はい。とんだ陰謀論の記事でした」
「……」
固まってしまったルナ。
「白浜さん? ……この芝原って人、例の主演MEMEと、アリクイMEMEの3Dモデルデザイナーだったんです。聴取のとき、なんか、昔の白浜さんのこと知ってそうだったので。また今度話を聞きに行こうと思って……あの、大丈夫?」
「嫌だ。行きたくない」
「え?」
「会いたくない」
覚め
通知音。コロン、と転がる、生成された硝子板。
「白浜さん? 通知ですよ」
「え!? あ、ごめんなさい……えっと」
Tubescapeの配信通知だった。――『Tubescape特番:呪文/翠 LIVE配信』
「え? 翠ちゃん今入院してて……配信できるんだっけ」
「――まずい。まずいかも白浜さん。『呪文』止めさせなきゃ」
「え?」
「ありゃマジもんの呪文なんですよ。聞いたMEMEがおかしくなるかもしれない」
「なにそれ……」
「いいから! 医療棟向かって! 私は事務所も見てきますから」
瞬間移動で消える仕立。――翠のもとに急ごう。
東山のとある通り。翠は一人で歩いていた。
「夢。ミーくん、これもそうだった? そうだったかもね……」
私がこの機能を、『翠』の機能を果たすことは、もうすぐ終わるのだ。これを節目にしよう。
――街灯の並んだ列が歪む。幻覚が酷い。思うように歩けない。このまま配信したとして、何を話せばいいんだろう? この地面の感触。あれ、橋まで歩いてきた? 待って、さすがに危ない。この辺、ガードレールもないはず。また手が何かを掴んで離さない。今度は何? 怖い。何なら意識まで奪ってくれればいいのに!
だめだ。一旦しゃがみこもう。もうすでに私は、機能不全だった。
――悔しい。悔しい? 私にもそんな感情が……。待って。その先を掴んで。夢の尾を掴んで! 私の夢は――。
虚空を見る翠。病室。そうだ、ルナさんとマネージャーさんに連れられて、戻ってきたんだ。ライブはもちろん中止。
曲が聞こえる。隣の病室。――これは、久しぶりに盛況だった、数日前のライブアーカイブ?
……そう、元々そうだった。『翠』が私である必要はない。皆が見るのは、皆が見たい『翠』であるべきだ。その間、私がここで橋屋ミドリとして生きていて、それの何がいけないのだろう。
――あ、ルナさんの旧式デバイス……どこだっけ。あったあった。テーブルの上。
「……えっ?」
ひとりでにこちらを向くデバイス。――あれ、旧式デバイスって、普通の物質だよね?
「これもしかして……例の……『物理的におかしい』」
――MEME? 誰かいる? それとも、HiPARの幻覚? でも、いくらMEMEだって、私の思考は読めないはず……。
周りを見渡す。HiPAR罹患者用の部屋。通常物質が多い。――珍しい。……このカーテン、動いたり、とかしたら怖――。
ひらり。
「えぇ……」
ドアは鍵がかけられている。――開け、開け、開け。
「……」
なんかしっくりこない。――違う。命令じゃないんだ。
――このドアは開いている。開いている。既に開いている。
ガチャ。
――そう、必要なのは命令じゃない。この思いが叶うことの想定、妄想だ。
視界に靄がかかる。ふわふわした感覚に包まれる。
――なら、やっぱりこの念力は私自身が起こしてる? なんと非科学的な、なんと恐ろしい、高圧AR症候群。ただ一つの念力行使ならいざ知らず、こうやって病院の外まで出てきたのも、「ベッドの上で見ている妄想ではない」と、説明してくれる。だってこうやって、街ゆくヒトが、何故かこの眼に未だ映るMEMEたちが、私のほうを見てヒソヒソ話しているじゃないか。だってこうやって、マネージャーが慌てて私を病院へ連れ戻しているじゃないか。
タクシーに引っ張られる体。――しまった、何か落とした。……ルナさんのデバイス。そのまま走り出す車両。困る。あのデバイスはこの手に持っていないと困る。そう、そうでなきゃ。そうであるべきだ。
震える旧式デバイス。たしか旧式デバイスは通知が来た際に振動するものらしいが、そういうレベルの揺れではなかった。あたりを跳ね回る。ボディ引きずってこちらに向かってくる。跳躍が激しくなる。まるで、デバイスを車窓から投げ捨てた映像を、逆回しで見ているかのようだった。デバイスが車窓へ突っ込んで来る。――あ、まずい。
――ゴン、ゴン、バリ。翠の手に向けて磁力が働いたかのように、デバイスは懲りずに3度突撃する。車窓がにヒビが入る。……止め方がわからない。
――ガシャ! デバイスの角が窓を突き破り、翠の手に収まる。窓硝子が飛散る。
「何!? 大丈夫みーちゃん!?」
驚愕の表情でこちらを向くマネージャー。硝子はさほど鋭利ではなかったが、これだけ浴びればどこかしらに切り傷がついただろう。対して翠は惚けていた。――私は今、この世界の新しい次元を見ている。
そうか、HiPARは私が患った病気じゃない。私が手に入れた、力だった。
「私はどこか、MEMEに入れ込んでました。でも翠ちゃんを危険に晒した犯人が、もしもMEMEだったなら。――そういう敵対心を、他の人も、他のMEMEに対して抱えてたのかも」
「……」黙っている仕立。
「LEXEMEは、やっぱりちゃんと見てないと。ちょっとでも怪しい動きをしたら、真っ先に――」
通知。――『Tubescape特番:呪文/翠 LIVE配信』
「……! どうして。中止じゃなかったの!?」
「場所は! Tubescape Japan? マウント場所はどこです?」
――いや、違う。どこかにマウントされてるわけじゃない。
「仕立さん! そこで寝て! 早く!」
「え、こわ」
「いいから! あの配信はTubescape主催の特番じゃない。夢! MEMEの見てる夢!」
「……なるほど、MEMEの異常な同接数も……そもそもが7番の仕業」
――フラッシュバック。ルミテルが叶えたチェックリストの項目。
「行って止めてきて!」
「無理ですよそんな……MEMEは夢を見ないはずですし、仮にやつが夢のような主観体験を見せているとして、自分の行動をコントロールできるかどうか。……それに、呪文聞いたら狂っちゃうかも知れないのに」
「私も行くから」
「白浜さん、ヒトでしょ」
「でもこの前会えたから、アイツ」
「やつの術中に、自ら飛び込めと?」
「うん。早く」
「はあ。じゃ、先に行ってますよ」
目を瞑る仕立。
「じゃあ、行ってくる、ね」
高層マンションの屋上――のように見える空間。ステージの中央に歩いていく人影。アコースティックギターと丸椅子が置かれている。椅子もギターも『ARオブジェクト』である。
『配信準備中』
- 00:23
取り出した硝子板をタップして衣装選び、瞬時に身にまとう。
呪文の歌データは、音源以外にまだない。うまく歌えるだろうか。そもそも、歌が始まるまでのトークはどうする? 後ろで待っているアリクイたちには、何を喋らせる?
そんなことは些細な問題。私はここで、『機能』を果たすだけ。私の機能を。お姉ちゃんの夢を。
『配信準備中』
- 00:00
――私は、眠りから覚めなければならない。
「ハロー元気ー! 今日も翠と遊んでこー!!」
AI Standalone Object 119672 - Dormir
(Model LAQCUER)―― クラスタ更新
PM-770『翠』|乖離度:0