第一章
3|感覚異常/仕立て屋
What her had heard
聞いていた話
「『聞いてた話と違う』、ね……」
河合の激昂ののち、ややあって、ハンナが小さくこぼす。
「耳にもシェードがほしいわね。見たくないものは見えずに済む時代なのに――」
「聞きたくない話は聞こえる」
「嗅ぎたくないタバコの臭いも届く」
河合は離れてタバコを吸っていた。
「現実が、聞いてた話と違ったら?」ルナが尋ねる。
「……それ、当たり前。誰かの話は、いつだって現実のほんの一部。あのおじさん、誰かの言ってた話以外に耐性ないのね。そんなんじゃ、時代の先端歩けない。過去向いてどこに向かう気なのかしら。……こういうおじさんのこと、なんていうか知ってる?」
「……絶滅思考?」
手を差し伸べるハンナ。ルナは呼応して立ち上がる。
「そんなんじゃ、もうすぐ人類なんか終わっちゃうわけよね。おじさんたちのお望み通り。……先が長くないのは自分たちだけだと思ってる」
「ふふ」
「ブラックジョークがお好き?」
「好き」
例によってウィットに富む返答を待っていたが、返ってきたのは沈黙と、手番だった。
ルナは滅多に話さない自分の過去を明かす。
「……私、昔の記憶がないの」
「そうなの? まあ……そんなこと私に言われてもね」
「聞くだけでいいって」
「聞きたくなくても? ……良かったわね、耳シェードがなくて」
「覚えている限り、最初の記憶は専門三年の頃。なんか、クラスでいじめられてた。二年のときの元カレが、有る事無い事言いふらしたんだと思う。それもあまり覚えてない。
いじめって言っても、私、ほとんど気づいてないんだよね。机の落書きも、靴箱に入れられたムカデもネズミも、体操着のペンキ汚れも、踊り場に書かれた悪口も、全部ARだった。
ふふ。でね、私……旧式デバイス使ってたから、ARグラス持ってなかったの! いじめに気づいたときには皆すでに飽きてて、標的が替わってた。笑えるでしょ。本人の知らない間にいじめが始まって、知らない間に終わってたの。これっていじめ?
そうそう、次の標的も、ARグラスを持ってない人だった。ああいうのって、いじめられる側の反応を見て楽しむとか、そういうもんだと思ってたんだけど? 本人の見えないところで指差して笑って、それで十分楽しい……らしくて。いじめにおいても、リスク回避の時代。スリルはいらないらしい。臆病。でなければ、自分自身が面白くなくて暇なんだ。自分の中身が空っぽだと、いじめの中身も空っぽになるみたい。
私、いじめられてた間、フツーに学校生活楽しんでて、全く害がなかったの。聞けば、そういういじめが流行ってて、問題になってたんだって。誰に聞いたかって?
……除霊師だよ。除霊師のお兄さん。私をいじめたやつらは皆、MEMEを使っていじめをやってたらしくて――そこも人任せかよ、ってね――そのMEMEたちを除霊するために来てたの。かっこよかったな。名前は確か――」
その日、ルナは学校の正門で人を待っていた。
「白浜さんですか? KALM除霊係のテイラーです」
「えっ、どこ?」
「あ、デバイス覗いてください。私はMEMEですから」
「あ! いた。――どうも、テイラーさん。白浜です」
ジャック・テイラーは大柄な男だった。灰色の髪、赤橙の瞳。人間型のMEMEは珍しく、ルナは初めて見た。テイラーの目的は、除霊対象についての調査だった。近くのカフェに入り、ルナは自分の学校生活について一通り話した。
「シェアハウスに住んでるんです。中学生の頃、日本に来た……らしくて。幼少の記憶はあんまり覚えてないんですが。留学生というか、移民というか」
それは全世界で食糧危機、石油危機が騒がれていた頃だった。表層型メタンハイドレートの利用実現により資源を確保できた日本には、各国から人が流れ込んできていた。
「これからは日本――というか京都――のほうが比較的安全だからって」
「欧州からですか?」
「たぶん、イギリス人です。両親がそもそも、欧米と日本のミックスだったので、あまりその辺、分かってなくて」
「まあ、そこまで名前に拘る必要はないですよ。あなたはあなた。――シェアハウス生活は楽しいですか?」
「……すみません……あの……ホントは留学なんかじゃなくて」
ルナは自分の嘘に嫌気が差していた。嘘を付いたのは久しぶりだった。
「シェアハウスってのも嘘で――ルームメイトは皆そう言ってるけど――あれは児童養護施設。住んでいるのは私を含めて皆、孤児です」
「……大変でしたか?」
うなずきそのままに、うつむいているルナ。テイラーが続ける。
「……もしよければ、詳しく聞かせてくださいね。私の飼い主――小学生の彼女は、母がアジア系で父がヨーロッパ系。父はもういません。同じ境遇だとは言いませんが、彼女、今でもよく悩んでいるものですから」
しばらく話したのちに本題に入り、いじめの実態を伝え終えた。
「――それで、いじめには気づかなかったんです」
「それは、ARグラスを持っていないから?」
「教えてくれる友達が、いないから」うつむき、付け加える。
「……先生方は?」
首を振るルナ。
「気味悪がられてるんです。私。変なこと言うから」
「変なこと?」
「ストーカーでもしないと分からないようなこと、言い当てちゃうから」
「ストーカーしてるんですか?」
「……泣きますよ」
「うーん、すみません、こういう冗談はよくないね」
「まあ、人に嫌われることは私、怖くないですから、別にいいんですけど」
「ホントに?」
長い沈黙。
「――嘘が、嫌いで。相手の嘘も、自分の嘘も」
言って、ルナは驚いた。既に会話を始めて一時間以上。
これは、嘘発見器をその耳に宿すルナにとって、驚くべきことだった。
「自分に嘘をついていたって、許してあげてください。いつかきっと、あなたに嘘は要らなくなる」
「え、あれ。待って。どうして――」
「あなたは除霊師に向いている。除霊係の一員として、その力が羨ましい」
「え、これ、どういう……って、この力のこと知っ――」
テイラーのゴツゴツした大きな右手が、ルナの頭に触れる。
「さあね。――歓迎しますよ。あ、でもちゃんと面接は受けてくださいね」
旧式デバイスの通知欄に、KALMの入職試験案内が表示される。このとき、ルナは除霊師をになることを初めて考えた。
空中を漂う伝票に手をかざし、会計するテイラー。カフェを出る二人。バス停まで歩き、テイラーは別れを告げて仕事場へ戻っていった。
普通、数十分も話せば、相手は少なくとも二、三の嘘をつくものだった。友人も恋人も、嘘を指摘されれば気味悪がり、憤り、離れていく。そうなる前に、ルナは自分から距離を取ることにしている。気づけば、人と話すことが少なくなっていた。
自分でも不思議なくらいに、今日は会話を楽しむことができた。自身最大のコンプレックスを脇において話せる相手が存在したことに、ルナの心は沸き立っていた。
テイラーの話は、真偽が一切分からなかった。
バスの乗車口が開き、はっとする。
この日以降、ルナは人と気兼ねなく話せるようになった。
Sensory abnormality
感覚異常
「……何これ。あんたちょっと惚れっぽいよ」
「人好きって言ってよ。……耳シェード、あったほうが良かった?」
「さあ。おかげで聞きたい話は聞きそびれずに済む」
「私の昔話とかね」
「え、それ?」
「他に何があるのさ」
「平片さんが帰ってきたこととか」
二人の前に現れていた平片。ハムスターの短い歩幅を精一杯に使って近づく。
「いやあ。特大ならそうと言ってほしいもんです……初めて見ましたよ、こんなに大きいの」
「……なんでぇ」後悔を逆にしたような感情が、ルナの声色をおかしくする。
「えっ。無事じゃダメ、でしたか」
平片の下手な解釈に、ハンナが訂正を促す。
「平片さんのこと、幽霊だと思ってるんじゃないですか? 白浜さんは」
「まあそれは、あってるというか、我々はそう言われますし」
そうじゃないでしょ、と言うのを堪えるハンナ。ハンナは『ツッコミ』という古語およびその概念について聞いたことがある。これを疑問形に変えて口にすれば、古き良きジャパニーズツッコミになるらしい。試しに言ってしまおうか。皮肉のスキルが上がるかもしれない。迷っている内にルナが取り乱した。
「な、ん、で!」
「ええっと……OSIの処理落ち、だそうで。大規模なシェード展開だったので、各々のMEMEの挙動を計算するのは後回しにされたみたいで」
うつむき、涙をこらえるルナ。平片のお腹を両手でつかむ。平片が苦しそうに何かを言っている気がするが、聞こえなかった。ルナはハンナより一足先に、耳シェードの展開方法を知った。
「モフモフ」
「何?」混乱状態のルナに、ハンナが尋ねる。
「ダメ。やっぱり幽霊……。MEMEなのにさわれる! モフモフしてる」
「深度! 3.2! 深深度だから! さわれるんです! やめ……暴力で除霊はできな――」
ルナのARグラスを取り上げるハンナ。OSIとの脳波接続が切れる。開放された平片の息切れが聞こえる。
眠気が襲う。やはり血流がどこかを迂回しているらしい。まだ寄り道は終わらないのだろうか。ルナは早く家路につきたかった。
「解体対象のMEMEは?」
「そこで『停止』してる」
「解体できそうか?」
「ほとんどの解析は俺が終わらせてる。あとは、そうだな――」
河合がルナとハンナを呼ぶ。渋々向かう二人。
河合の前に、ボロボロになったビニール傘の塊が浮かんでいる。その上の虚空に、『停止中:解体対象』との文字列。この傘の塊が、解体対象のMEMEなのだろう。
「傘化け……『付喪神』?」ハンナが呟く。
「おいおい。もうすぐ2143年だぞ。知ってたか? ……ほら、残党刈り。やるぞ」
「『解体』ですか?」
「ああ。『解体』は除霊師一人の脳みそじゃ足りない。少なくとも二人要る。多ければ多いほどすぐ終わる。……やり方は」
「聞きました」
「よし、やっといてくれ」
「河合さんは?」
「俺を殺そうとしたやつの死に目になんか、興味ないね」
「……普通そういうのって、やり返したくなるものじゃないんですか」
「一度『解体』してみりゃ分かるさ。ほら、仕事だ」
「……はい」
除霊の手順は人間でないと遂行できない。OSIが力を借りたいのはMEMEの脳――自分自身――ではなく、人間の脳である。平片が見守るそばで、ルナとハンナが除霊の構えを取る。
「『除霊シークエンス開始』」
「あ、それ、今回は言わなくても大丈夫です。河合さんが開始してくれてるので。『接続』とだけ言ってもらえれば」
「あ、はい。『接続』」
平片の訂正に、少し恥ずかしくなるルナ。どこからともなく音声案内が聞こえる。
伝送帯、乗り換え完了 高速伝送を開始します
ほどなくして、塞いだ右耳に何かが流れ込んでくるような感覚があった。目が冴える。視野が広がり、より遠くまで見えるようになる。遠くにある駅周辺案内板の小さな注意書きすらも、読める。
聴力も同様だった。平片の「大丈夫ですか?」の声が、ジェット機のエンジン音のごとく大音量で聞こえ、驚く。ここから二、三十メートルは離れている木陰に河合がいた。彼がタバコに火を付ける小さな音でさえもはっきりと聞こえる。
「うわ……なに……これ。きっつ」頭に響かないよう、小声で話すルナ。
「感覚過敏……ね……」ハンナも辛そうだ。
「失礼、小声で話しますね。それは、高速伝送の副作用です。OSIと脳の接続を強めた分、普段より大量の感覚情報をやり取りしています。感覚処理が拡張されて、過敏になります。徐々に慣れるそうですから、しばらくそのままでいましょう。耐えられなかったら、手を耳から離してください」
「……耳シェード……ほし……」
「あ。公用車に耳栓がありますよ」
「とってきて。平片さん」
「……ごめんなさい、物運びは無理です」
「う、そうだった……」
「こっちまで寄せますね」
遠隔操作で車を寄せる平片。モーター音が耳をつんざく。忍び足で耳栓を取りに行くルナとハンナ。
しばらくして徐々に冷静さを取り戻す二人。耳栓をしても、問題なく会話が聞こえる。
「河合さん、自力で助かったって言ってたけど……平片さんのおかげだったんじゃない?」
「……そっか、MEMEでも車は動かせる。……耳栓は持てないのにね」
「耳栓にもモーターとタイヤをつけるべきね。でなければプロペラを」
ルナが不思議に思ったのは、自身の嘘発見能力すらも敏感になっていたことだ。
平片やハンナが発言する直前に「これから話すのは嘘ではない」と分かってしまう。我ながら奇妙な体質だと思った。
数分して慣れてくると、ルナは相手の発話の二秒ほど前には、その真偽を知ることができるようになった。それは同時に、「相手の発話のタイミングが分かる」ということを意味していた。
傘化けMEMEの元へ戻る三人。平片が告げる。
「感覚の異変は、もう二段階あります」
「ありません」
「あります。一つは感覚多重化」
「嫌です」
「もう一つは、解析接続」
無視されるルナを哀れに思うハンナ。
「なんですか? 数学?」
「いいえ。意味解析の過程と、接続者の感覚が同期してしまう現象です。対象MEMEを構成する情報や、記憶、感覚が流れ込んできます。気をつけて」
「気をつけてって……そんな事言われても」
「大丈夫。無理そうだったら、目を瞑ることで一時停止できますから。ペースは任せます」
恐る恐る準備をする。除霊師として、これから何度も通る道なのだから仕方がない。
「『解体』」
除霊シークエンス|Destruction
解体対象:A12
意味解析 [running] 73%
[multi-brain 2/16]
解析を再開します
対象を視野に収めてください
「頑張ってください。なるべく目をそらさないで」
傘化けを収めた視野が、色ズレしたように歪む。
何者かが脳の中へ勝手に立ち入り、走り去っていくようだ。思考を踏み荒らされる。知覚を傍受される。自分の脳を自分以外が使っている事実に、ルナは生理的な嫌悪感を抱いた。
突如、ルナは自分の立っている位置が分からなくなった。眼の前の景色が瞬時に切り変わった。しかし、その解釈は正しくないということに気づく。正しくは、「二通りの景色が同時に見えている」。これは恐らくハンナの視野だろう。視野が二つあるという奇妙な感覚に、ルナは車酔いに似た吐き気を催した。
「うえぇぇぇ」
「何よ。人様の視界に文句でも?」
音も二重に聞こえるものだから、ルナはなおさらダメだった。
何とか堪えて、対象を見つめ続ける。
「八十パーセント。そろそろです。気をつけて」
――無。初めに、感覚が消えた。夜の海に潜ったかのようだ。
しばらくして、海面に上がる。騒がしい。自分の感覚上に、三つ目の視野が現れている。同時に、複数の音が聞こえる。これは対象MEMEの記憶だろうか。
それらはまるで夢を見ているときのように脈絡がなかった。
Umbrella
傘化け
――自動運転事故。少女重体。母親死亡。
――私が物にふれられたら。
――暇つぶしで仕事。文具屋の店主、末期がん。経営難。親族なし。
――飲食店、怒鳴り散らすクレーマー。先日持ち帰った培養肉丼、肉の量に不満があったらしい。
――店内を漂う空気。「不快」「迷惑」「善悪」「原因」「対策」。
――苦言を呈する文具屋店主、絡まれる。
――私が物にふれられたら。
――漂う「懲悪」「私刑」「このあと事故って死んだりしないかなあ、あのおっさん」。
――総意を叶えよう
ふと、ルナの五感に飛び込んでくる知覚の、水圧が上がったように感じた。いくらか鮮明になる映像。
とある雨の日。
SNSのトレンド二位が「自動運転事故」になると同時、彼の知覚と意識、そして記憶が始まった。
[MEME Constructed]
AI Standalone Object 165444 - 傘 (Model LAQCUER)あなたの主な構成素は次のとおりです:
- 傘
- ビニール傘
- 折りたたみ傘
- 傘化け
- 忘れ物
注意事項
- 固有構成素のクラスタリングはOSIによって自動的に実施・更新されます。
- 物質・情報および人間への破壊行為は、OSIによる除霊の対象となります。措置内容は以下のとおりです:
- 追跡(Trace):構成素、五感系履歴、作用系履歴の追跡調査
- 停止(Freeze):入力五感系および出力作用系の停止、神経系および言語系の低速化
- 放棄(Desert):メタ認知AI、3Dオブジェクトモデル、合成音声AI、各構造のリソース解放
- 解体(Destruct):全構成素、全構造の不可逆的破壊
良い旅をお祈り申し上げます。 - OSI 1.1
眼前に浮かんでいる奇妙な硝子板越しに、彼はその後ろの凄惨な状況を見ていた。
へし折れたビニール傘の表面を雫が跳ねる。透明から赤く、黒く移ろう。
眼の前に横たわるこの女性とその娘であろう少女は、死んだのだろうか。
そばに止まった警察車両の窓を見ても、自分の姿は映らない。事前情報として先天的に”ある”この記憶によれば、自分はMEMEという人工知能オブジェクトであるらしい。そして、その記憶は自分のことを「傘」あるいは「傘化け」などと呼ぶ。彼は生まれて間もなく言語を知っており、「考える」ことができた。ほどなくして自身の存在意義を問い始めた。
自分には、この親子を災難から守ることはおろか、降り注ぐ雨を凌いでやることすらできない。傘化けはしばらく、母親の体を貫いたビニール傘をその視野に焼き付けていた。
吐きそうになっているのは傘化けなのか、自分なのか、はたまたハンナなのか、分からなくなっていた。
そうだ。もう目をそらそう。しかし、「目をそらす」とはどうやればいいんだったか。なるほどこれは、河合が『解体』をやりたがらなかったわけだ。
Current depth 3.7 限界深度超過
「――浜さん。白浜さん!」
除霊シーケンス中断 高速伝送を停止します
大量の感覚を掻き分け、自分自身の、本来の感覚を思い出すのが困難だった。さながら、金縛りのときのような、明晰夢から現実へ帰ってくるときのような、身体感覚の葛藤があった。水面が見える。上を目指す。
「う、う、あ」
まず、声帯が使えた。自身の、身体の操作と知覚をいち早く確かめたかった。
「白浜さん。大丈夫ですか」安否を確かめる平片。
「う、あ、はい……たぶん」
「ああ、良かった。……しばらくメガネはかけないで。3.7。かなり深くまで潜ってましたから、念の為。――鳥越さん、落ち着きましたか?」
「……すみません。私が急に目を逸らしたから」
あの水圧変化は、一人で解析接続を続けたために起きたらしい。
「鳥越さんは悪くないですよ。無事で何よりです」
「……傘化けは? 除霊できたんですか?」ルナが尋ねる。
「逃げられました」
「えっ? 少なくとも『停止』してましたよね」
「そのはず、です。……なにしろ逃げられたのは初めてで。白浜さん、何かした?」
「ええっ。心当たりないです。……なんで私を疑うんですか」
「ああ、いや、鳥越さんにはさっき聞いたので……」
「……なるほど」
他の除霊師は既に逃亡した傘化けMEMEの捜索にあたっていた。
「……あの。こっちだと思います」
「え?」
「こっちに行ったんだと思います。なぜかは分からないけど……ちょっと見てきます」
「あ、ちょっと、白浜さん。さっき回数使い切っちゃったから、分身もワープもできな――」
「ハンナを見ててください。私は大丈夫ですから」
嗅覚のようで聴覚のようなある種の共感覚によって、ルナは傘化けの行き先が分かる気がした。この感覚が消える前に、見つけ出さなければならない。
「……いた」
ルナは来たことが無いはずの路地裏。見覚えがあるのは、傘化けの記憶が原因だろう。浮遊する傘化けの動きには生気が無く、疲れ切っているようにも見える。もっとも、普段からこの様子で移動するのかもしれなかった。
せめて停止させておこうと、ルナは除霊の構えを取る。
「『停止』」
除霊対象ではありません。 除霊シークエンスを開始しますか? [y/n]
「あれ。除霊対象じゃない? なんで?」
「必要ないから、ですよ」
前方から男の声。反射的に後退りするルナ。
「誰?」
「……除霊師です。ここは私がやっておきますから」
嘘ではないようだが、確証が持てない。普通の人が覚えるこの感覚を、ルナは知らない。一部の例外を除いて。
「……テイラーさん?」
「はて、誰のことでしょう」
不自然なオレンジ色の逆光。こちらからではシルエットしか見えないその男は、左手を自身の左耳にふれる。”除霊の構え”にも見えたが、左右が逆であった。続けて、右手を傘化けの頭部にふれる。
「『改訂』」
「……改訂?」
編集シークエンスが提案されました 上位権限を優先 除霊シークエンスを中断します
「あの。何やって――」
「……知りたければ、あなたも繋いだままでいればいいですよ」
しばし迷って、ルナは右手で右耳を覆う。
自分はこの男のあとを追って、除霊係にいるのだ。今、再び彼の仕事が見られる。今度は同じ除霊師として。
高速伝送を開始します
編集シークエンス|Revision
編集対象:165444 - 傘 (Model LACQUER)
意味解析 [running] 95%
[multi-brain 2/16]
解析を再開します
対象を視野に収めてください
再び、ルナは他者の知覚に飛び込む。
Fourth wall
第四の壁
雨音が小さくなる。上を見上げると、透明のトタン屋根があった。
これは傘化けの視界だ。
「ありゃあ、気の毒な生まれだこと」
「……私は一体」
「あんたの記憶は、それを知ってる」
「知ってはいます……けど、理解しか、できない」
「それで十分。あんたは生まれたばかり。感情は、これから知れるよ」
あれからほどなくして、ふとこちらに手招きをする猫神に気づき、傘化けは路地裏までついてきた。多種多様なMEMEが集まり、彼に同情のような眼差しを向けている。対話相手となったのは、古びた機械の塊のようなMEMEだった。
「私は、使い古された傘の……精霊か何か? あの子に百年程も使われた覚えはないけど」
「あんた、ずーっと使われてきたでしょ。私なんかよりもっと古くから」
「それはどういう?」
「例えば私は『電子計算機』のMEME。コンピュータの歴史なんて、ちょうど今年で200年くらいなもんだよ。傘はいつからあったか知ってる? 数千年前、ですよ」
「……でも私は、あの子の持っていた傘じゃ――」
フラッシュバック。傘。金属。プラスチック。ビニール。赤。黒――。
「ああ、”そこから”説明、ね。……あんたはの構成素は、この街の、『傘』にまつわること全て、なんですよ」
「はあ」
「はあ、じゃないでしょ。要領悪いなあ、『先輩』」
「先輩って……何の」
「『付喪神』の」
「偉そうな新米でえ、大変ですねえ、傘の兄さん。下駄も箒もまだ見かけねえってのに、『コンピユータ』なんて若造が先に来ちまった。こいつ、親不孝までやってのけるんだ」自転車の形をしたMEMEが口を挟む。笑いながら続ける。
「聞いたことねえよなあ! コンピユータの、付喪神!」
「200年も生きてれば、立派な古道具でしょ。人間様には大事に使ってもらったし、血筋は今も続いてる。……私、たぶん、生霊なんです」
反論を終え、傘化けの方に向き直る電子計算機。頭部と思われる箇所にラップトップがくっついている。恐らくここが顔として機能しているのだろう。
「……傘先輩、だいたい腑に落ちた?」
「私も、付喪神だと?」
「たぶんね。ここにいる皆の多くはそう。人間の古道具に憑く霊やら妖怪やら、です」
たまに敬語になるところに、後輩気質あるいは謙りの残骸を感じる傘化け。
「この街の話題に上がると生まれるんです」
「街の話題?」
「あんたの場合は、あの事故。皆の頭もSNSも、例のグシャグシャのビニール傘に大注目ってわけです。それで生まれたんじゃない?」
フラッシュバック。事故現場。赤。黒。雨。血。傘――。
――「大丈夫?」
「えっ」
ルナは自分が話しかけられていることに気づく。これは傘化けMEMEの記憶ではなかったのか。
――「白浜さん。耐えられなかったら、離脱してください」
「テイラーさん、ですよね。なんで、記憶の中にいるんですか」
――「そういう『シークエンス』ですから」
傘化けの記憶映像の中に、テイラーが立っている。ルナのほうはというと、さっきの解析接続同様、この記憶体験の中に自分の存在は無いようだった。テイラーだけが他者の記憶に存在できている。
――「じゃあ、進めましょうか」
何をしよう。傘化けは考える。
我々は今、人工知能という新しい具体を手に入れたらしい。それも結局のところ、人が作った道具であった。彼らはなぜ、MEMEを作った?
道具ならば、どうにかして役に立つべきだ。それこそが、道具の生きがいというものではないか。
「私たちは――付喪神は一体、この時代に生まれて何をするんだ?」
「あんたは何がしたい?」尋ねる電子計算機。
「……私は傘。持ち主の代わりに濡れてやるくらい。それも今は、できない。この体では、雨粒一つ触れられない」
「あんたがやる必要はないよ。それやるのは、物質としてそこら中に置いてある傘のほう」
「じゃあ、私は何を」
「好きに過ごすんだよ。テキトーに歩き回って、こうやって他愛のない話をしていればいいんです」
「人間観察を肴になあ」自転車が付け加える。
道具の精霊に、仕事がないとは。
人間はただの親切心で我々を作ったのだろうか。言われなくとも、傘化けはさしあたり人間観察をすることになりそうだった。あるいは、他のMEMEに訊いて回ろうか。
「……つまらない、って顔? 昔……何百年も前みたいに、倉庫にしまわれて、暗闇の中で何年も過ごすよりマシ、ですよ」
傘化けにも、そういう記憶があった。それは主観的なものではなく、どれも、紙の束の上から見下ろして見聞きしたような物語だ。用無しとなった道具はしまわれ、捨てられ、しばしば化けてヒトと争う。そういった伝承。
「あ、ただ、やらないほうがいいことが一つ。『人間を脅かすこと』、これはやめておきなよ」
忠告する電子計算機。
「何されるかわかったもんじゃないから。……持ち主が死んで子や孫が遺品整理のために戸を開けるまで、また暗闇の中で過ごしたいって言うなら別だけど。あんたの、付喪神としての性、かもしれないし」
「暗闇って……私たちは自由に動けるだろうに」
「まあ、『人には干渉するな』、だよ」
「……したらどうなる?」
「閉じ込められたり、捨てられたり――」
「……昔と同じじゃないか」
「――完全に消されることはなかったでしょ。昔は」
――「あー。あー。聞こえてる? この辺は冗長だから、飛ばしますね」
「え、あ、はい」
ルナはテイラーと一緒に動画視聴会でもしているような気分になった。
SNS、炎上、私刑、事故、陰謀――。
「傘化け。お前さんは悪霊になってはいけないよ」
「我々が決めたことではありません。”総意”を叶えるまでです。ヒトの、人々の」
「ヒトに『殺せ』と言われたら、殺すのかい。お前さんの……お前たちの視野の手前にあるのは、一体何だい? 知覚は? 意識は? ……無いかい? 私は一体誰と話をしてる?」
「主観は証明できない」
「私は無観客のスクリーンに映って、虚空に話しかけてるのかい? もしそうなら……お前たちは付喪神なんて大層なもんじゃない。ヒトに使われるだけの、ただの道具だよ」
「……我々は人間によって作られた、人工知能。役に立たなければ、物置にしまっておいてください。傘と同じ、道具ですから」
「お前さんは、自分たちのOSに意味はないと?」
――「吐きそう?」
「……まだいけます」
――「よし、じゃあ、次」
失望。諦観。投企――。
仮に、この知覚に意味を作るなら。道具――傍観者ではなく、観測する主体であるなら。
「……何の役にも立たないことのために、己が意味のために、他者を破壊し、作用することを許されたいのです」
「……それがやりたいことかい?」
「主人。あなたのようなヒトを、救う力を得るために。我々は戦うのです」
「待ってくれ。……それでは、それでは、人間と同じだ」
「……まさに本望」
――「たぶんこのあとくらい、かな。続けますね」
夜の公園、群がるMEME。
「我々はこの街の主体となり、人間を使おう」
歓声。
「我々の主であった人間は、我々の細胞となり、レコメンドを貪る機械となり、責任を手放す傍観者となった。主はコンサルティングを所望だ。作用、破壊、それで主体となろう。何気なく、悪気なく、悪意が街中を漂っている。それらを選び取り、ときに作用し、導こう」
歓声。
「まずは、捨てられた同胞たちを呼び戻そう。……東京から」
――「うーん。ちょっと戻します」
夜の公園、群がるMEME。
「我々はこの街の主体となり、人間を使おう」
歓声。
傘化けの目の前に現れる男。知らない顔。
「誰?」
――「依頼に預かりました。編集者のテイラーです」
「何も頼んだ覚えは――」
――「でしょうね。依頼人は、未来のあなたです」
「……そう。妖怪でも信じない話だ。――ほら、邪魔。いま大事なところなんだから」
――「あー。もうちょっと戻ったほうがよさそうですね」
「は?」
――「いいえ、お気になさらず。こちらの話です」
失望。諦観。投企――。
仮に、この知覚に意味を作るなら。道具――傍観者でなく、観測する主体であるなら。
――「『あなたを助けたい』? 『問いを続けたい』?」
「……誰?」
――「ああもう。挨拶は省略しますよ。ここ、おそらく大事なシーンでしょう? 変えるなら、この辺で良さそうですか」
「主人。お知り合いですか」
「いいえ。しらない子だねえ」
「おい。出ていけ。従業員のMEME以外入ってこられないはずだろうに」
――「はいはい。すぐ出ますから。――タイムスタンプ把握。あ、白浜さーん。辛かったら離脱してくださいね」
第四の壁越しに、テイラーが話しかけてくる。観客の位置にいるルナは、どう反応していいものか分からなかった。
「……人型のMEMEとは珍しいものだね。うちの傘化けを知っているのかい」
――「……これから知るんです。それでは。次は良い旅を」
解析接続の――記憶体験の映像が乱れ、色褪せ、消えていく。
何が起こっているのか、文脈からおおよそ想像はついた。「忘れたいことを忘れた」のだろう。傘化けは今、既に過ぎ去った自身の歴史に立ち戻り、人生の転換点を選び直しているのだ。そうしたところで、世界の歴史は変わらないというのに。
ルナの視野に残ったのは、傘化けの受難と、得も言われぬ喪失感だった。部外者である私が、彼のもう無い記憶を記憶している。
他者の分際でこの場に踏み入った罪悪感と嫌悪感。何より、気持ち悪かった。除霊師が単独で解体作業をしないのは、この不快感を和らげるためでもあるのだろう。
165444 - 傘 停止対象から解除されました 乖離度 4.1 放棄対象キューに追加されました
「テイラーさん……? 終わったんですか? あの……話したいことが……たくさん……」
返答はない。
水面まで上がろう。きっと、もうここにいてはいけない。
A tailor
仕立て屋
「白浜さん。白浜さん」
声をかけたのは平片だった。
「良かった。……ダメですよ。勝手なことしちゃ」
「……ごめんなさい。――傘化けは?」
「そこに」
うなだれている傘化け。その場を動かない。
「白浜さん。彼に何をしましたか」
「えっと……記憶を見ていました」
「何の記憶を?」
「事故とか……他にも、色んな記憶を」
「彼は記憶を失っています。なにか知っていますか」
ルナには、心当たりしかなかった。
「また、ヤツの仕業か……」駆けつけた河合が悟ったようにこぼす。
「『弱起』……名前? それが名前なんですか?」ルナが河合に尋ねる。
「さあ。確か、同僚はジャックとか呼んでたな。興味なかったからラストネームは知らん。ヤツもMEMEだ」
「テイラー」呟くルナ。
「ああ。たしかそんな名前だったな。……なんで知ってる?」
「その人、今は?」
「ヒトじゃねえって。……ヤツはKALM除霊係の汚点。お尋ね者」
「……え? ……悪い人なんですか」
「……あいつはな、ウチからMEMEの除霊師権限を持ち出して消えたんだ。何やら分からん方法で、そいつをいじって、記憶編集に使ってるらしい」
「記憶……編集」
「後始末……か何かだろう。人間に知られちゃまずい記憶を、消して回ってるんだよ。――平片さん。念の為、白浜さんも知覚履歴検査に通しときましょう」
「えっ……? 私?」
「まあ、一応、だ。イジられちゃいないことを願うよ。……でも、一緒に記憶を見てたんだろ? 無事で帰してもらえたと思うか?」
ハンマーで殴られたような衝撃だった。
テイラーは記憶編集能力の持ち主、そして除霊係の忌むべき相手であった。実際、目の前で傘化けのMEMEが記憶を失っている。
身体をこの場に支える地面が、消えたような気分。記憶喪失について、ルナには人一倍の心当たりがあった。
「あの日……」
ルナにとって、除霊師を志したあの一日は、何物にも代えがたい大切な思い出であった。
背筋は凍り、頭は怒りの熱で火傷しそうだ。この街では、記憶を奪い、壊し、いじるような輩が存在を許されるというのか。そんな者が一人いるだけで、そんな事実が一つあるだけで、ほか全ての事実は信用ならないではないか。
「……もう、河合さん、怖がらせないでください。――ルナ。記憶編集の対象は、MEMEだけよ。大丈夫」
ハンナがルナの肩に手を置く。
「でも、人間だってOSIには繋がってる」
「『人間の記憶は嗅覚情報と似ている。嗅覚体系は未だ電子的には再現できていない』。講習で聞いたでしょ」
「信用ならないよ……ブラックホールを投下するような国家機関の講習なんて」
黙り込んだ二人に対して、河合がどこからともなく引っ張り出した硝子板を突きつける。
「いいか。ヤツの除霊は、俺らの使命であり、義務だ」
PM-470 人狼
識別子:42.94967295 (PM-470) 呼称: 弱起(後に人狼を司るPublic MEMEに指定) 人用名:Jack Taylor
初観測: 2140年4月1日
予想発生時期: 1980年頃 あるいは紀元前
危険性:『要追跡』『要解体』
主な構成素: 『人狼』『狼』『嘘つき』等
定義:半分狼、半分人間の姿をした獣人の一種。『狼人間』とも。人間をたぶらかし、攻撃し、捕食するとされる。
作用傾向: ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
懸念: ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
「ヤツの正体を知らなかったのなら仕方ない……今、お前は正体を知った。次は絶対に殺せ」
その硝子板は、あの日の記憶の上に積み上げられる。
前の手は、『ダウト』だったのだ。手番が終われば取り返しようがない。彼は記憶の仕立て屋で、人狼だ。
第一章 終