2|MEME/西陣織
2|MEME/西陣織

2|MEME/西陣織


Gina, Cage Repair
雲ジーナ、檻の補修

「私に兄はいませんが」
「御冗談を」

この男はいくらか自分について知っているらしい。

「……いえ。兄とはあんまり似てないでしょうから、つい」
「初対面の人間に対する反応が全く同じだ。相手の先を行こうとする」

こんなふうに相手の先を行こうとする人間は嫌いだ。ここが大学で、要件がデートのお誘い程度で、兄が未だ盲目であれば、すでに話を終わらせている。今、東雲しののめジーナの心を守っている檻は堅牢ではない。外側からの補修が必要だった。そんな状態では、心は開かざるを得ない。

「相手の先を、ね。……自虐ネタ?」
「君は――君とお兄さんは、怖いからそうするのでは?」
「あなたの場合は」
「動機が違う。私の場合、確信からそうする」
「そうですか。……で、交番の前ですけど」
「そのほうが安心かと思って。君はお尋ね者じゃない。家出少女でも、ないはずだ」

男のセリフから読み取った危険な映像は、これまでの陰鬱な時間よりマシな色合いをしている。

「早朝のウォーキング中です。歩きながらでいいですか」


「ナンパしておいて口数少ないのってどうなんですか」
「……歩きながらだと、読むのに苦労するのでね。これ」

女性E22:ナンパしておいて口数少ないのってどうなんですか(質問)

男が見ているARオブジェクトの硝子がらす板に、ジーナの直前の発言が字幕として表示されている。
この男は耳が聞こえないらしい。元盲目の兄の境遇に通ずるものがあるが、同情する気にはならなかった。もとよりジーナはそういった感情に興味がない。今はそんなことより、この男と兄との差異について考えていた。この男が内に秘める外界への好奇心は、おそらく兄のそれとは違うのだろう。

意思疎通の手段が限られるほど、相手の思惑を察しやすい。ジーナは、相手の少ない言動から自身の行動指針にまで翻訳するのが得意だった。

「で、何をしてほしいんですか?」
「……『引っ越し』の手伝いを」
「何をしてくれますか?」
「『引っ越し』の手伝いを」
「労働と対価が同じなんですが」
「無問題。きっと、win-winだから」

変な間や前置きがあり、端的な言動が続いたら、それがこの手の人間の関心だろう。要件は整理されていたのに、出し渋ったのだから。

この後に続くであろう難解な長文を、ただ聞いていればいい。兄のときもそうだった。


第一章

2|MEME/西陣織


Luna’s head is full
ナの頭は一杯一杯

血流が脳に達していない気がする。白浜しらはまルナは公用車の横でしゃがみ込んでいた。

「あら、意外と丈夫なタイプだと思ってたけど」ハンナが車に片手をつきながら言う。
「顔青い?」

ルナの顔を覗くハンナ。

「血がサボってどっか迂回してるんじゃない」
「心配ありがとう」
「してないけど」

ハンナから言われた初めての嘘だった。心配していないのであれば、「顔は青くない」とか何とか言ったはずだ。

今日の出来事を思い出す。現場仕事初日の頭には、整理が必要だった。


騒動は解決したのか、我々の仕事は失敗したのか、イマイチ分からなかった。
ルナが見ていたものは4つだった。

一、遠くに佇むモノリス。
光沢のある黒い大理石の板のようだった。5×20×45メートルの直方体が、大通りを塞ぐようにそびえ立っていた。

二、交通の混乱。
自動運転のバスや貨物車両が9割を占める一般道において、想定されるイレギュラーには念入りに対策がなされている。ARオブジェクトは触れてもすり抜けるのだから、自動運転に際しては無視することになっている。よって原因は自動運転車ではない。残り1割の手動運転車がモノリスを前に停止し、続く自動運転車が停止、街の頸動脈が完全に塞がれたようだ。物理的な場所を問わない仕事が多い今、主に影響の矛先は物流に向いていた。
手動運転の際にARを使用することは禁じられている。運転中の彼らにモノリスは見えないはずが、あとで聞いたところによれば、どうやら見えていたという。HiPAR高圧AR症候群の幻視症状が疑われた。HiPARと診断されれば仕事に差し障るため、受診をせずに過ごす者は多いらしいが、今回の件で炙り出される形となった。

三、群がるMEMEミームたちが紡ぐ『言語X』。
モノリスのそばに、数十のMEMEがいた。彼らはモノリスに体の一部(腕や触手)をふれ、何やら呪詛を唱えているように見えた。周辺の液晶およびAR空間に、呪詛の内容と思われる未知の文字列が表示されていた。

ro!!a> res n!iuGa ;cas場-as OS 。 すr[2.1];xor olj qNAK+!rqACK 不? <rotta

その意味は一切分からなかったが、ルナの嘘発見器は、彼らの呪詛が本心であると告げた。
呪詛は一定のリズムを持ち、全体は音楽的で、音節は線対象で、フレーズには始点も終点もなく、語順は無関係のようであった。
昨今、AIが未知の言語『X』を使って意思疎通をしている、人類を支配するための準備をしている、という真偽不明のニュースがよく出回る。

ルナはこの呪詛が『言語X』だと思うのと同時に、これは厳密には言語ではないようにも感じた。彼らの心の色をそのまま記述や音声シニフィアンに投射した、一枚の絵画のように思えた。

四、除霊師とMEMEの闘争。
くだんのMEMEたちは、河合かわいを含む除霊師の言葉に耳を貸さなかった。そのまま、除霊師は右手で右耳を覆い、除霊対象のMEMEを見つめる。ルナも以前、見たことがある動作だった。同時に、除霊師の硝子板に文字が浮かぶ。

除霊対象キューに追加しました:A04
意味解析を開始します。

ルナと一緒に待機していた平片ひらかたが説明する。

「右手は、大脳とOSIの高速通信を始める合図です。完了までの間、できるだけ対象のMEMEを視野に収めていなければならない」
「見て、それだけ?」
「それだけ。あとはOSIが私たちの視界と脳みそを使って、意味解析をします」
「意味解析」
「なんでそう呼ぶのかは忘れましたが、要は、MEMEの正体を暴く工程です」
「……MEMEって、OSIが動かしてるんですよね? なんで自分の中にあるものを分かってないんです?」
「うーん。コンピュータ……っていう機械が昔あったでしょう? コンピュータにとっての、ウイルスみたいなもので」
「ああ。何となく分かってきた」
「OSIは、ウイルスを除去したい。そこで、自分の中から取り除くものを決める必要があるわけです。そして、それが結構難しい。なまじ全部のMEMEが同じAIで動くものですから、判別がつかない」
「同じAI?」
「ええ。京都のMEMEはすべて、同じAIモデル『LACQUERラッカー』を使っているんです」
「ああ。分からなくなりました」
「ええっと、全く同じ構造のAI――全く同じ見た目の機械が並んでいる、みたいなことです。正常なモノも、取り除くべきウイルスも、同じ見た目」
「それは困りますね」
「そう。……そして、その機械はいわば全自動の『はた織り機』です。情報という多彩な染糸を織り上げて、MEMEを作る。MEMEはこの場合、『西陣織にしじんおり』ですね。これを裁断して、反物たんものを仕立てて、マネキンに着せるのがARの役目。情報こそが、使われる『』。MEMEとは『情報の解釈』の――『意味』の――擬人化なわけです」

「情報が、糸」
「そう。情報の解釈クラスタリング、つまり糸の選択を務めるのは、機織り機であるAI『LACQUER』。便宜上、OSIは織機会社としましょうか。ここまではOKですか?」
「なんとか……ついていってます……」
「上出来です。その大本となる糸、『情報』こそが、いわばMEMEの細胞。しかし、今は大量情報社会です。情報は日々増えるし、更新されるし、破壊されるわけです。SNSなんか、特にそうでしょう? 新しい糸が次々と増えたり、糸が切れたりするわけだから、使う糸をまた考えなきゃならない」
「忙しい」これは今の自分の頭の状態をかけたダブルミーニングであった。
「もっとふさわしい染糸が増えたら、それを使いたいわけです。古い糸と入れ替える必要がある。元あった糸は外される。そういう感じで、情報の選び方を変えていく。ずっと同じ解釈では、時代にあった最適な意味を表せない」
「代謝みたい」
「まさにそう。代謝が必要。常に最適な意味を表すために、解釈の範囲――情報の集合クラスター――は日々更新されるんです。だから一旦調べないと、OSI自身でもウイルスの根本ねもとを断てない。よって、意味解析が必要!」
「わーーーー」
「ダメですか」
「いえ、頭がいっぱいです。帰ったらもう一回、教えてください!」
「……そうですね。一回で覚えなくても大丈夫です。分かりました」

約束を取り付けたルナ。
――平片さんって何の『意味』の擬人化なんですか?
尋ねようとして、やめる。帰ったあとのネタにしよう。
ややあって、整理がつく。

「あ。要は、個々のMEMEがどの『糸』でできてるか分からないから、見つめている間に糸をチェックする……みたいな?」
「そうそう。分かってるじゃないですか」
「なんで見つめる必要が? なんで私の大脳を使って考えるんです? その間、私は意識を失うんですか?」
「少しボーッとする程度らしいです。大丈夫。……白浜さん、意外にも理屈が気になるタイプなんですね」
「意外にも?」
「ええ。……あ、いいえ」
「イラ。意外にも柔軟なタイプなんですね平片さん」
「イラ?」
「怒りです。分かるでしょう」
「すみません。口に出す人は初めてで」

硝子板に追記があった。

意味解析完了 放棄対象キューに追加しました:A04

「あ。解析終わったみたい……」

おぞましくもある文字列。緊張を紛らわすために尋ねる。

「……結構時間かかるんですね」
「大物だったんでしょう。普通は十秒くらいなもんですが」
「……で、除霊ってどうやるんです?」
「意味解析の終了後、OSIが勝手にやってくれますよ。だいたい取られる処置は『追跡Trace』『停止Freeze』『放棄Desert』の三つ。『解体Destruct』はごく稀です。放棄と解体が俗に言う『除霊』のことですね」
「はあ。聞かなきゃ良かったかな……『放棄』と『解体』の違いは?」
『解釈をやめる』のが放棄」

緊張からきていた眠気が一気に覚めるルナ。MEMEである平片もその危険を背負っていることを思うと、やはり背筋が寒くなる。

「……『解体』は?」
『なかったことにする』


突然の轟音に、はっとする。
急加速する一台の自動運転車。周りの車両を巻き込みながら前進している。
「河合さん! 退避!」叫ぶ平片。次の瞬間にはルナのそばから姿を消していた。
玉突き状態の車両が、モノリスめがけて押し込まれる。河合の安否はここからでは見えない。

無線連絡が入る。
――「シェード展開準備。所属MEMEは範囲外に退避せよ。展開まで20秒」

「クソ! あとちょっと」
河合の苦しそうな声が遠くから聞こえる。無事ではあるようだ。
シェード展開とは、良くないことなのだろうか。ともあれ、MEMEは退避とのことらしい。いくらか安堵して、おとなしく平片の帰りを待つことにするルナ。

空が長方形の硝子板で埋め尽くされる。それぞれに同じ文字列が表示されている。

EH Expansion

T-minus 17s

EH Expansion

T-minus 17s

EH Expansion

T-minus 17s

EH Expansion

T-minus 17s

追加の連絡が入る。
――「上位命令。除霊対象A12、解体対象スタックに追加。所属MEMEは対象をシェード範囲外にて拘束せよ」

解体。恐らく、自動運転車を暴走させたのはMEMEだったのだろう。そのMEMEが今、解体対象になった。平片に説明を求めようとしても、そばにいない。河合を助けている最中だろうか。ルナは少し不思議に思った。向かったとて、MEMEは物体に触れられないのに。

突如、モノリスが轟音を発する。ドン、ドン、と内部から何かを叩きつけるような音が、地鳴りとともに伝わってくる。硝子板に震度4の地震速報。既に揺れている。
モノリスに触れた空気が不意に光を放ち、光量を上げる。モノリスの光沢のある黒い表面に、薄っすらと何かの構造が透けて見える。どこかの風景のようだが、反射が写した京都の街並みではないようだ。建造物の並びの中に、見覚えのある電波塔が見えた。

EH Expansion

T-minus 1s

EH Expansion

T-minus 1s

EH Expansion

T-minus 1s

EH Expansion

T-minus 1s

一秒後、ルナの視界が消えた。


That was not what we had heard
いていた話と違う

初め、ルナは自分が失明してしまったのかと思い、焦りを隠せなかった。無意識に後退りし、空を見上げる。視界の上部が復活する。

今、ルナの目の前には巨大な黒い半球があった。数分前までそこにそびえ立っていたモノリスより黒く、その半球の表面には質感が全く感じられない。自分の視野がそこだけ黒塗りされた、あるいは欠落したように思えた。半球は、モノリスを中心に半径数十メートルの物体をその内部に隠してしまった。
さながら、半分地面に埋まったブラックホールだった。時折、表面に白い文字列が表示される。

Event Horizon
No depth 1.0 or deeper

ARシェード』でよく使われる表記だった。プライバシー保護や、センシティブな画像・オブジェクトのブロックを目的として、黒塗りのARで対象物を隠す機能。こんなに大規模なものは見たことがない。
ARグラスを外す。眼の前の黒球は消え去る。遠くに寂れた旧京都駅の中央口が見える。警察やKALMコーム職員と話をしている一般人がちらほら見受けられる。
ARグラスをかける。眼の前に黒球が現れる。そこにあったはずのモノリス、そこにいたはずのMEMEたちが見えない。

ハンナが半球の上部を見上げながらルナのもとに戻ってきた。驚きのためか千鳥足になっている。それをバカにするほどの気力は、今のルナにはなかった。

「ハンナ。なに、これ。消えたの?」
「さあ。シェードにそんな機能はないでしょ? 隠すだけ」

同じく新人であるハンナの意見では、安堵はできない。
「知られちゃまずいだけ、なんじゃない? 十分きな臭いけど」

止まってるか、消えたか」不意に黒球の表面から出てきた河合が言う。

ルナはとっさに立ち上がり、尋ねていた。
「……平片さんは?」
「おいおい、俺の心配は無しか? ……言ったろ。止まったか、消えたか」
「……その意味を訊いてます」
「ARシェードって知ってるだろ、それの大規模なやつ。EH球とか、黒塗りとか、黒球とか呼ばれてる」
「はい」先を急かすルナ。もっと切迫した話があるはずだ。例えば、同僚の安否について。
「あのな。事象の地平Event Horizon、なんだから、その向こうが知れちゃだめだろ? 知られないために隠すんだ。中で何が起きてるかは知らん」
「知らないんですか? ……除霊師なのに?」
「しょうがないだろ。まあ、KALMの重役だったら知ってるんじゃないか? ヒラで悪かったな。上司に嫌われるようなこと言うのは、あと一週間程度にしときなよ」

やれやれといった表情。河合には一切の緊張感が感じられない。

「いつ元に戻るんですか、これ」
「戻らない」
「え?」
「――と思う。これまでに展開した黒球は、消えずにずっと残ってる。今まで人目につく場所には展開しなかったんだが……これで、世間様に説明する必要ができたな。……良かったじゃないか、中身について知れるかもよ」
「今までって、前にもあったんですか」
「あの石板――モノリスって言ったか?――小さいのを含めて、今回で確か7枚目だな。なんでも、特殊なオブジェクトで、OSIから消すことができないんだと。発生する原因も、その後の影響も不明。というか知らされてない。放っておくと害があるとかで、毎度黒塗りして隠してるんだよ。まあ、これはついでで、除霊師の本来の仕事じゃない。――クソ、今回こそ展開の前に根こそぎ除霊してやろうと思ったのに。……どうだ、除霊の流れ見てたか? だいたい分かった?」

言いあぐねるルナに替わって、ハンナが口を開く。
「MEMEって瞬間移動できましたよね」

話したいことを話せず、もどかしそうな様子の河合。
「ったく、なんだよお前ら……ワープには距離制限と回数制限がある。黒球の中心近くにいたとしたら、アウトなんじゃないか? 平片さんがどの位置にいたのか、回数使い切ってたのかは知らんが」
「……平片さんは、河合さんを助けに向かったんですよ」
「ああ。来てたよ。俺が車両に挟まれてるところに。結局、自力で脱出したがな。擦り傷で済んだんだ。ほら。どうだ」
返答しないルナ。
「……俺も、まさかこんなサイズで展開するとは思わなかったからな。平片さんは知らんが、俺が見ていた2係のMEMEは、たぶん間に合ってない。……こりゃまた、新しいのが必要だ。人事部に怒られるな」

ルナは無意識の内に河合を睨みつけていた。
「おいおい。その眼はいけねえ」
「知ってることを教えてください」
「話しただろう。……まあ、こいつが普通のシェードと同じだとは思えないな。黒塗りされたって、俺みたいに中から出てくればいいって話だ。じゃあ、なぜ出てこないか? 簡単。MEMEにはそれができない。だから『止まってるか、消えたか』って言ったんだ」
「そんなの……」
「まだ不服か」

互いに苛立っている。こちらの苛立ちは正当だろうか。
ルナの初めの質問が問うたのは、事実とその受け止め方――平片の安否と、我々が背負うべき感情の種類だ。河合は一切の悲しみを見せていない。暗に、私の悲しみは筋違いだと言っている。平片は、河合を救うために飛んでいったというのに。

「河合さんはMEMEが嫌いなんですか」
「地雷」ハンナが二人に聞こえない声で呟く。
「ああ。個人的には嫌いだね。憎んでると言ってもいい。……俺の親戚はな、知る限り誰も働いてない。名ばかりのベーシックインカムじゃ、俺の家族はメガネの一つも買えやしない。そんなわけで、俺が3世帯分養ってる。こうなったのはなぜか。MEMEが、AIが仕事を奪ったからだ
「……でもそれは、今の仕組みが途上で――」
「なあなあ新人。こういうのは黙って聞くもんだろ? ――AIはな、機転が利かない。そのくせに責任能力を問われない。知ってるか? 今のAIはトロッコ問題を『街の総意ランダム』で決める。妻は乱数で死んだのか? MEMEの運転で死んだのか?
「……すみません。知らなくて」

河合に、責務の内に秘める『ここでは泣けない』の類いを期待してしまったが、それはないようだった。あったのは、彼を蝕む記憶と現実。苛立ちが無力感の裏返しだというなら、河合も自分と同じように、あるいはそれ以上に無力なのだろう。

人間のやることを奪い、生きがいを奪い、挙げ句人命を奪った。ナイフ一本も持てない腕でな!

ARグラスを外しながら憤る河合。

『人類の救世主』? ……奴らは人類の敵だ! だから俺は除霊師をやる!」

頭痛がひどい。話に嘘がないことや、温厚な河合の豹変などは心底どうでも良かった。今の自分が置かれている世界は、聞かされていたような色ではなかったのだ。私はその色を前提に、これまでいくつを間違えた? なぜ除霊師になった?

事務所に戻ったら、誰がもう一度除霊の流れを教えてくれるのだろう。平片以外の誰が。
その場にしゃがみ込むルナ。ハンナの手が背中にふれる。

「鳥越。今の俺らに共通する災難はなんだと思う」
「あとにしてください」
『聞いてた話と違う』


Gina, Pity by proxy
雲ジーナ、借り物の同情

あてもなく、五分くらい歩いた。ジーナは男の話を聞いていた。

「――というわけだ。ご興味は!!」
「なんでテンション上がったんですか。急に」
「おっと……失礼……東雲にもよく言われるんだがな。耳が良いのかな、君らは」
合成音声がボソボソと喋る。
「それは下がりすぎ。確かに私たちは耳ばかり使ってましたけど……誰でも分かります」
「誰でも分かる、か」

間があった。

「……申し訳ない!! 気を抜くとよくこうなる。私には『音声のニュアンス』というものが分からない!! 文字列で表現できるニュアンスとは、だいぶ違うらしいじゃないか? 無念にも、私は言葉を文字でしか知らない!! 脳波音声の出力をよく間違える!! ……だが、ほとんど誰も指摘してくれない」
「家族も?」
「あーあ」

一瞬、意味が分からなかった。

「……『ああ』でしょう? 短く、『ああ』」
「ああ」
「そう」

可哀想なことがあるものだ、と思った。この男から滲み出る違和感の正体が少し分かった。あるニュアンスに、ある語彙に、自分とは違う解釈を持っていると感じることがままある。多用しそうな口癖でさえ、それを指摘されてこなかったようだ。
通信規約プロトコルの解釈――意味感覚が違えば、正確な意思疎通は成り立たない。中学生の頃に愛読していた、言語学の電子書籍の中にあった一節を思い出す。兄の校正キャリブレーションを担ってきたジーナには、身にしみて分かっていることだ。

「東雲が羨ましい。君のような家族が欲しかったものだよ」
「お気の毒に」

ジーナは珍しく、そう冷たくあしらうのがはばかられるように感じた。これが『同情』という感覚なのだろうか。兄の代理としてであれば、自分にも他人への同情は可能だったらしい。

仮に、東雲サロに妹がいなかったら、ニュアンスを校正してくれる人間がいなかったら、どうだろう。成り立たない意思疎通が兄にもあったのだろうか。その場合、外界に対して何を思うのだろう。少なくとも、暗闇を暴いて自らを焼きに来たかもしれない光に、自分から手を伸ばそうなどとは思わなかったはずだ。

この男は今、取り返しのつかないほど乖離してしまった外界に対して、何を思っているのだろう。
敵意も、善意も、ほとんど知り得ないはずだ。


error: [HuanShi - Area-Depth Suppression Protocol] Content is protected