――時系列がわからない、とドルミルは思った。巨大な黒い半球が遠くに見える。
目の前に、三角形のMEMEが浮遊している。彼あるいは彼女を囲んで、複数のMEMEがいる。ドルミルもそのMEMEたちの輪の一部であった。三角形は動かない。
「君、初めて?」
隣に立っていたアリクイのMEMEに話しかけられる。少しドライな雰囲気だったが、声には柔らかさも感じる。映画『プロトコル』に出てくる、主人公のバイト先の先輩を思い浮かべた。全編通して何かと世話を焼いてくれる、お姉さん的立ち位置の女性。――あれ、つまり今は映画を観た後? ……そうだっけ?
「え、あ……うん……何してるの、ですか」恐る恐る発声する。一応敬語に直した。
「さあ。何か、気づいたらこうなるんだよ」
「……え?」
「気づいたらここに立ってて、こうして皆で何かを眺めたり、喋ったり。……今日のお題は消えていくMEME。もうすぐ放棄されると思うよ、あの子」
「放棄」
「君、生まれたて? 乖離度なんぼ? 気をつけなよ、4以上はまずい」
「今、1.1」
「……はあ!? なんだよ……心配して損した。いいな、屈強な構成素があって」
機嫌を損ねてしまったようだ。
「まあでも、MEMEの消える理由は『除霊』以外にもう一つある。せいぜい『捕食』されないように気をつけなよ」
「捕食……食べられちゃうの? ……ですか?」
「乖離度の低いMEMEの構成素は、抽象的なことが多い。類似の構成素は統合される可能性がある。――そして、こんなふうにこの場に現れて会話ができる相手は皆、自分と構成素がだいたいかぶってる」
「ひ。食べないで」
「食べねえよ。OSIが勝手に、似ているMEMEを『統合』するんだ。より低い乖離度のMEMEのほうに、な。それを捕食って呼んでるだけ。――君も気をつけなよ。大抵、『統合』先はPMなんだ。それもかなり若番の。彼らはいわば歴史の先端……勝ち目はない。奴らの乖離度は――」
「ハロー! げんきぃ? おじょーさん、あーそぼー」
頭に響く声。何?
「誰?」
「どうしたの?」アリクイが怪訝そうにこちらを見る。
「今の声」
「え? 何も――」
「ソイツにゃーきこえなーいよー。おれはオマエに話しかけてるのー」
振り返るドルミル。声の主を探すも、それらしきMEMEは見当たらない。
「アハハハハ! アハーハ! ア!」その様子をあざ笑うような、あるいは無邪気に笑っているような声。
「誰」
「オマエが名乗れー」
「……ドルミルは、ドルミル。あなたは」
「名乗らなーい!」言って、笑う。
「なんでドルミルに話しかけるの」
「えー? だってぇ」
「わっ!」
目の前が真っ黒になる。――何が起きた?
「オマエはー、おれの構成素のひとつだからだ」
第二章
6|欠陥物理/Dream
フリッター中毒
スクリーンに向かう二人と一体。なんだかソワソワしている翠。心ここにあらずといった様子で、ルナは少し気になった。
「大丈夫?」
「あ、はい。……ちょっとFlitterチェックしてもいいですか?」
「うん……」
一切無駄のない洗練された動作で、SNSの硝子板を取り出す。血眼になってフリックを繰り返す。
「ご、ごめんなさい。ちょっと中毒気味で……」
昨今メジャーなSNS『Flitter』はOSI上で動作しているサービスである。ARデバイスさえ持っていれば、どこでも、誰でも――MEMEでも――利用できる。脳波を読み取ることで発信したい思考を予測し、自動で言語化、ビジュアル化、それを編集して投稿することができる。
Flitterは単なる自動SNSというだけではない。OSIはFlitterの投稿を、個人の信用スコアやMEMEの乖離度を決める材料としている。ユーザーの信用スコアやバイアス深度によっては、Flitterを始めとした主要サービスの利用が制限される。『印象フィルタ』という機能も優秀で、ユーザーが不快になる、メンタルに悪影響を及ぼす、などと判断された投稿は非表示になる。総評として「クリーン」なイメージのSNSであった。
翠のようなインフルエンサーとファンがコミュニケーションするための機能も提供する。OSIに記録される簡易知覚履歴をもとに、動画や3D 映像を生成、日記のように投稿することもできる。翠のアカウントでは、もっぱらこの「日記」的運用がなされていた。
「……ふー。よかった。昨日の夜の日記、最近始めた自炊の写真なんですけど、ちょっと自信なくて」
「え? あれで……? あれで『自信ない』なんだ……めちゃ美味しそうだったけど」
私がやったらああはならない。そもそも自炊なんてしばらくしていない。『映え』の対極に位置するような完全栄養食の塊では、フォロワーが減るに違いない。
「ああ、えっと、自炊の出来栄えじゃなくて、『自炊をしている』ことに対して……批判がないかなって」
「え? 批判?」
「ほら、最近は自炊って贅沢なイメージあるじゃないですか。生野菜とかとっても高いし……スーパーじゃオクラともやしくらいしか手に入らないし」
――スーパーの野菜事情……知らない。なんだか少し情けない気分になってしまった。
「ああ、たしかに、ちょっとセンシティブな問題になってきてるかも? 食料飢饉とか」
「そうです。作り過ぎとか、絶対やっちゃダメなので」
「そ、そんなことまで気を配らなきゃいけないんだ……いや、そこまで有名だと当たり前なのかな」
「当たり前です!」
「そ、そっか……」
思ったより大きなスクリーンだった。向かう座席はプレミアムシート。周囲の座席とはだいぶ離れている場所に、ぽつんと目当てのエリアがあった。周りを見渡すルナ。目立ってしまわないか不安だったが、翠にそれを気にする様子はない。
広告が大画面をふんだんに使って主張してくる。……開演までまだ時間はあることだし、この後の予定を決めておこうか。
「翠ちゃん、この後――」
「……」反応がない。
「翠ちゃん?」
「お姉ちゃん」ドルミルが呼びかける。
「えっ? あ! ごめんなさい。なにか言いましたか?」
「ううん、この後のこと話そうと思って――大丈夫?」
「ああ、はい。……人混みとか苦手で」
「ああ、そうなんだ……意外かも」
「最近、苦手になったというか……」
Flitterに続いて、人混み。そして、観るのに勇気を要するタイアップ映画。大変なことだ。
「えっと、今日は夕方まで休みなので――」
今日の予定について話し終え、映画が始まるまでの間、翠は終始落ち着かない様子だった。
スクリーン以外の光が消える。
プロトコル
主人公とヒロインのアバターが、AR空間を編隊飛行している。美麗なCG、迫力のサウンド。
――「ねえ。話聞いてる?」
――「え、ああ、ごめん」
――「はあ。そんなにSNSと繋がってたいんなら、アンタもつかえばいいじゃん。プロトコル。それで、いいねが増えるのをずーっと眺めてればいいよ。じゃあね!」
――「ちょ、ちょっと。ゴメンって!」
インターホンのチャイムが連打される。
――「はーい!」急かされるように応答する主人公。
机に置かれた主人公のARデバイスをなめて映すのは、慌てて靴を履く主人公の背中。ひとりでに何かを投影するデバイス。スクリーン中央に、『protocol』の題。
――ブラックアウト。
主題歌「呪文」。長めの前奏はピアノソロから始まった。
二時間弱も、あっという間に感じた。高揚が知覚と思考を支配する。
――面白い!
なぜこの映画が炎上しているのか、正直よく分からなかった。設定や動機に少し引っかかる部分はあったが、結末には素直に感動できたし、後味も悪くない。スクリーンを登っていくクレジットを見つめている今、ルナの心には割合スッキリとした余韻が残っている。――酷評されるようないわれはないだろう。
途中でストリングスが合流して展開し、唐突に無音へ。
……まだ無音。長い。まるで本編の演出の一つのようだった。アコースティックギターのアルペジオを連れて翠の歌が合流する。
もはや定番となった翠のはつらつとした歌声が、今回は少しダークな雰囲気を帯びている。隣に歌った本人がいるだなんて、現実は小説より、映画より奇怪で、どんなゲームよりもバグって――。
「ごめんなさい、先に出ますね。外で待ってます」
「え……あ、うん。じゃあ私も――」
「お姉ちゃんのことは、任せて。ください」言い残してついていくドルミル。
自分の曲を聴くのが辛かったのだろうか。ルナは席に残り、「呪文」の一番が終わったところでスクリーンを後にした。
化粧室に通じる通路の入口で、ドルミルが翠の戻りを待っていた。
「お姉ちゃん、大丈夫だった?」
「うん。たぶん。……です」
「そっか」
翠を待っている間、Flitterの様子を見てみることにした。協業製『プロトコル』とMEME製『ブラックアウト2』を比較する文脈は多い。しかし、そもそも両者の作風にはかなり差がある。参考になる比較結果は少なかった。
『ブラックアウト2』は原作を知るファンにも受け入れられ、映画から知ったライト層のファンも増えている。『プロトコル』のほうは多少難しい題材を扱っており、その部分の描き方に関して、原作ファンの間で賛否が問われていた。そこから波及したり、翠の『AI堕ち』の件から割り込んできたりと、半ば内戦状態であった。『ブラックアウト2』のファンの間では、話題にも上がっていない。
――うーむ。社会の評価とは、この生物の蠢き方とは、なんと難しい。
「お姉ちゃん?」
ルナとドルミルの前を素通りする翠。こちらに気づいていないように見える。
「あれ、翠ちゃん?」
「え? あ、ルナさん、ごめんなさい! ……ちょ、ちょっとお水買おうかなって」
「え、大丈夫? ――買ってくるから」
「ああ、すみません」
「はい」ペットボトルの水を渡す。
「ああ、ありがとうございます……あっ――」
「わあっ――」
翠の手がボトルに触れると同時、突如ボトルを全力で握りしめる翠。圧で水があふれる。
「うわああやっちゃった……! ごめんなさい!」
「だ、大丈夫! 片付けとくから、翠ちゃん休んでて」
「はい……」
さっきからなにか不自然だ。――まさか。
しばらく休んで落ち着いた様子の翠。
「あの、翠ちゃん。もしかしたら、なんだけど、その」
「あー。えっと」
「お姉ちゃんは、何でもない……!」割って入るドルミル。
「ドルミル? あー、まって」止めようとする翠。
「幻覚症状とか、無い。そんなに……」
「あー……あなたに弁護士は頼めないわね」
やれやれといった様子の翠。ドルミルの弁護は白状と同義だった。――やはり、翠はHiPARを患っているらしい。
「あはは……やっぱりそうなんだね」
ちょうどいいし、これから向かうカフェで話を聞こう。
ギターも弾けない
翠行きつけの、こじんまりとしたカフェだった。店員は全員MEMEのようだ。
「コーヒー一杯40円……やっす」
MEMEに人件費はかからない。飲食店の場合、極端に原価率が高くなる。こういう「飲食店キラー」なMEME経営店は、適正価格まで値上げするよう、課税されるんじゃなかったっけ――。
「マネージャーの知り合いのお店で……事務所の人曰く、業界関係の複雑な事情があるらしいです。まあ、私には1ミリもわかんないですけどね」言って笑う翠。
「へー。私の知らない世界だな……」
手持ち無沙汰な様子のドルミル。――MEMEにも食事ができたらいいのに。
「事務所の人は知ってるの? その……」
「はい。一部の人は知ってます。私が罹患者だと」
「AR、使いすぎたから?」
「そうですね。まあ、罹ってもしょうがないというか……」
ARグラスを外す翠。翠の頭上を見る。
- Current depth - 3.2
『現在深度』の表示は、さっきまでと変わらない。
「あれ、裸眼じゃない?」
「はい。カモフラージュ用の伊達メガネです。まあ、ARシェードで顔隠してもいいんですけどね。今どき裸眼で過ごしてる人なんていないでしょうし」
ARグラスに伊達メガネ的な使い方があるとは知らなかった。
ともあれ、翠はARグラスを使っていない。ということは――。
「コンタクトか、眼内レンズ? え、あれ、もしかして」
「『DiVAR』です」
視覚補助システム『Direct-View AR』。話には聞いたことがある。
――でもあれって、眼の見えない人用の技術じゃなかったっけ?
「あれ、前は見えてなかった、ってこと?」
「いいえ。見えてました。施術した動機は……そういう方たちと違って、不純なんですけど……もっと深いところまで潜りたくて」
「深深度AR?」
「ええ。まあ、もっと深く、『depth 4』以深まで行きたくて」
『depth 4.0』以深。KALMの技術部や開発部の職員が、業務で利用しているのは知っているが……あれはかなり危険だったはずだ。ARオブジェクトがARオブジェクトだと分からないほど精細になる深度……俗称はたしか、『五感層』。
「ど、どうして?」
「……さあ、落とし物でもしちゃったんですかね? 海の底に」微笑みの裏に、何かを抱えている様子。
「落とし物」
「ま、まあ。ほら、私、曲作るでしょう? インスピレーションがほしかったんです!」
嘘ではないらしい。
「より鮮明な……それでいて超自然的な世界が、『五感層』以深にはあるんです……! 見たことあります……?」ちょっとテンションが戻ってきた翠。
「いや、無いけど」
「すごいんですよ、あれ! ほとんどのオブジェクトがMEMEによる自動生成なんですけど、もう、『異世界に来たー!』って感じで。あたり一面見たことない景色!」
「へ、へえ……私より詳しそう……」
「今度行きましょうよ! 申請すれば行けますから」
「ダメ」
「ダメ」ドルミルもすかさず付け加える。
「あ、はは。そうでした。……あんまり非現実的な世界だから、現実を見失うなんてありえないと思って……ついつい長居しちゃったりして……そしたらちょっと、症状が出始めて。こっそり診断してもらったら――よいしょ――軽度の、HiPARだって、言われて」
右手で左手の震えを抑えつつ、グラスにミルクを注ぐ翠。アイスコーヒーの中に白い靄が広がる。
「幻聴がよく聞こえるんです。自然の声っていうか――なんかスピリチュアルに聞こえるかもしれませんけど――気配を感じたと思ったら、なんとも言えない……音? なのかな。うん、たぶん音。鳴ってない音が聞こえるんです。でも、作曲のときにもよくやってることだから、最初はそれと同じ、職業病的なものだと思ってました。そのうち、ヒトの声みたいに聞こえるようになって。それも、なにかの悪口とか、攻撃的な言葉なんです。まるで、その……周りの人の心の声が聞こえる……みたいな?」
ルナは自分の能力のことが一瞬頭をよぎった。
「それで、人混みが苦手に?」
「はい。常にFlitterが気になっちゃうのも、正直なところ、幻聴で聞こえる批判のせいで、不安になっちゃって」
「もしかして、今回作詞をしなかったのって――」
「それも、HiPARが理由です。――作詞できなかったんです。幻聴も、初めのうちはインスピレーションとして活用できてたレベルだったんですけど、最近はもう、集中力全部持っていかれるくらい、うるさくて。今回の曲は、恥ずかしい話、納期に間に合わなくって。やむなく、『Leaves』使おう、って話に」
一つの謎が解けた。これまで作詞作曲を手掛けてきた翠が、作詞AIを使った理由。
翠が咥えるストローの中を、アイスコーヒーが登っていく。
「今回の詞は、気に入ってなくて、辛いとか……?」
吹き出すのをこらえる翠。
「あは! 逆です逆! 『めちゃくちゃいい歌詞じゃん!』って。感動しちゃいました!」
「そ、そう、だったんだ」
「はい。今回、実はギターも弾いてないんです。最終盤の音源は、歌以外、MEMEの演奏です」
「ギターも?」
「ギター弾けなくなっちゃって。ほら」
翠の指が、時折、不自然な動き方をする。まるで独立した意思で動いているようだ。
「たぶん、これもHiPARの症状です。……なんかごめんなさい。だいぶ暗い苦労話になっちゃったかも? 私、そんなに落ち込んではないですから! こうして、久しぶりに長い休みももらえたし。ルナさんとも話せました!」
ルナの耳が、その音声の真偽に反応する。――意外なことに、嘘ではないようだ。って、あれ? ホントに辛くないの?
「――って、休みは今日の昼までなんですけど……はは。……これから配信もあるし」
カフェでMEMEの扱いについて相談したあとは、事務所に戻って配信をするとのことだった。――MEMEの説明、してないな。
欠陥物理
一通りドルミルとの接し方や、MEMEの扱い方を教えた。といっても、これは翠の事務所によって依頼された、半ば通過儀礼のようなものであった。MEMEの扱い方など、調べればすぐに分かる。大切なアーティストについてまわるMEMEが信用に値するのかどうか、KALMによる検査をしてもらう必要があった。
今後、翠の活動に際してドルミルが公に姿を見せることもあるかもしれない。そういう場合の『KALMお墨付き』という、翠のファンに対する安心材料を作ることも兼ねていた。
「まあ、こんなもんかな?」
解説に用いる動画資料を停止するルナ。
「ありがとうございました! ……そういえば、KALMの方も使うんですね、『Tubescape』。てっきり避けてるものかと思ってました。海外のサービスだし。……Flitterもですけど」
「動画はTubescapeが一番、扱いやすいからね。……翠ちゃんが一番わかってると思うけど……あ……もしよかったらなんだけど……チャンネルの画面、見せてもらっても?」
「いいですよ! はい」
黒い半透明の硝子板。――うわあ! 本物。『チャンネル登録者:780万(人、体)』
「すご……」
「ま、まあ、半分以上はMEMEなんですけどね」
『Tubescape』はOSI上で利用できる動画配信サービスで、ヒトはもちろん、MEMEにも利用できる。若者の間では、AR空間にて――この場合はVR空間とほぼ同義だが、ユーザーそれぞれの現実空間に『展開』する形を取るため、昨今はAR空間と呼ばれる――、同時試聴会、クラブ、ライブ会場その他、交流場所として利用されている。動画配信を主軸とした、メタバースの総合サービスとなっている。
利用比率はむしろMEMEのほうが高い。「ヒトの数よりMEMEの数のほうが多い」ことが原因の一つだが、なぜだかMEMEは、ヒトより好んでTubescapeを利用する。
翠も、Tubescape上でライブ配信をしている。つい数ヶ月前も、Tubescapeが主催する海外のロックフェスに出演していた。名前は確か――。
「『Escapade』! すごかったね! ああ、素人の感想しか出てこないんだけど……ホントに、感動しちゃった」
「ああ、ありがとうございます。ホントに、ずっと夢だったので。全世界リジョンのライブフェス。Escapadeは特に」
「同接4000万、だっけ。ありえない! ヒトって減ったんじゃんなかったっけ!」
「そ、それも7割はMEMEですけど……」
「……ああまあ、世界人口20億切ったし……でもすごい!」
「すごい」ドルミルがボソッと呟く。
「そ、そうかな。そうだね。あはは……」
……同意は、本心ではないらしい。長年の夢を叶えたというのに。……理由を聞くのは野暮だろうか。「燃え尽き」だとか、そういうこともあるかもしれない。
あてもなく、虚空を見やる。ルナの周りを漂う動画のサムネイルは、歴史解説動画で見たことのある『回転寿司』という店の様子を思い起こさせる。とあるニュース配信のサムネイルが目の前を横切る。ポン、と触って、ドルミルがそれを再生する。
「あ、こら」
「え」
「ルナさんのアカウントでしょ?」
「ごめんなさい」
「ああ、いいよ。この場に『マウント』してるから、触れた人のアカウントで再生されるはず」
「ああ、そうなんですね。――ドルミル、何か気になったの?」
「うーん……」
――「……投稿動画に映っているこのMEMEは映画『プロトコル』に出演したMEMEの一体であり、事情を探るためKALMによる捜索が行われています」
「アリクイ!」珍しく大声を出すドルミル。
「え?」
「誰? それ」翠が尋ねる。
「アリクイ……あれ。いつ、会った? あれ」
「ああ、思い出した。このMEME、役者さん」硝子板に映っているアリクイを指す翠。
「アリクイ、出てたっけ? 映画に」
「声と、モーションキャプチャーでの出演です。『バイト先のお姉さん』役」
「ああ! あの人MEMEだったんだ……」
ニュースの音声が続く。
――「『#物理的におかしい』は、Flitter上で昨日から投稿が相次いでおり、KALMは今日未明、HiPAR罹患の可能性があるとして、投稿者に受診を訴えました。投稿を『幻覚症状』だと決めつけるようなKALMの対応に、投稿者やFlitter利用者の間では反発の声が広がっています。また、中には『反人類的思想』を持ったMEMEによる工作ではないかという――」
今日の朝に通知をOFFにした、KALMからの連絡を確認する。未読32件。……ああ。やってしまった。明日の仕事が思いやられる。
「ドルミル?」
「うん……やっぱり、なんでもない……」
「そう。――物騒ですよね、これ。『MEMEの手で物質が動いた』とか。映画関係者だし、面倒なことにならないといいですけど。ルナさん?」
机に突っ伏すルナ。
「KALM、帰ったほうがいい、とかですか?」
「嫌。もうどうでもいい……わけないけど……でも今日は休みだし……うん、休む!」
「お、怒られないですか?」
「翠ちゃん、『怒られるか怒られないか』で物事決めてたら、損するよー!」
「は、はい」
いやいや、この場合私は、今まさに損をしているだろうに。……なんだか惨めになってきた。
――ん? まてよ。今まさに、私は「仕事をしている」のではないか? そうだ。なにも負い目を感じることはないじゃないか!
「MEMEには、変なやつもいるから。翠ちゃんも気をつけること!」
「あ、はい……!」
「はい」合わせるドルミル。
「うん、よろしい!」
翠の事務所。ルナは今日のTubescape配信に付き添うことになった。マネージャーさんに「通過儀礼」を終えたことを伝える、いい機会でもあった。
「配信、久しぶりねー。……皆に忘れられてないかな」
不安な様子で呟く翠。いやいや、登録者780万で『忘れられる』だなんて。
「そんなことないでしょー、全然。皆待ってるって」
そのうち半数以上は人じゃないけれども……。
「まあ、忘れられるというより、『終わりなき答え合わせ』というか。……合ってるか不安なんです。『これで合ってるのか』って。周りの反応とかみてると特に」
本心。だが、翠は本当に「自分の行動に自信がない」のだろうか? 一日一緒に過ごして、ルナはこの言動に違和感を覚えた。
「お姉ちゃん、怖がり」
「ああ! 言ったなー! ……あ、そうだ。ルナさん。エージェントって何でもやってくれるんでしたよね」
「うん……法律と公序良俗に反さなければ」
「じゃあ、大丈夫だ。――ドルミル! 代わりに配信やってみて!」
「……え」
何を言われたのか分かっていない様子のドルミル。
「声と姿も真似てみてよ! 演者さんのMEMEもやってたし! ――できますよね!?」キラキラした眼でルナに「Go」を求める。
「あー、うん。長期の変形は申請が必要だけど……数十分なら」
「よし! じゃあ練習! 出だしの挨拶、知ってるわよね?」
「え……ええ……むり」
「『ハロー元気? 今日も翠と遊んでこー』ね。――さん、はい!」
「うぇえ……」
とても嫌そうなドルミル。ルナは微笑んでいるしかなかった。視線でこちらに助けを求めているようだが……私にはどうすることも……。選択の余地はないと分かり、渋々口を開くドルミル。
「――はろげん……。今日も……とあそんで……こ」
……下手! 微笑みが苦笑いなるルナ。
――いや、ちょっとこれは……配信は到底無理じゃない? 半分くらい聞こえなかったし。
「えっと……も、もっと元気よく!」めげずに指導を続ける翠。
「う……ハローげんき。今日もみどりと……あそんで、こ……!」
「あ、良くなってきたよ! もっとこう、流れるように、スパッと!」
「はろげんきょうもみどりとあそんでこ」
「抑揚! ない!」
またこちらを見ているドルミル。
「が、頑張れ、ドルミル!」ひとまず応援しておいた。
結局、配信は翠がやることになった。いくらMEMEとはいえ、この数分で本人の真似事なんてできっこないだろう。
事務所のスタジオにTubescapeをマウントする。ARでできたライブハウスが視界に広がる。ルナのARグラスの現在深度は2.8。これくらいの深さともなると、薄暗いライブ開場の描画はほとんど本物と遜色ない。
程なくして、接続中の視聴者が客席の位置にマウントされる。彼らは今、各々の部屋にいて、帰り道のバスの座席にいて、公園のベンチに座っていて、同時にライブハウスの客席にも『いる』。昨今、『いる』や『会う』といった動詞は、それが現実世界での用法なのか、AR空間での用法なのかに気を配る必要がある。
こんなにも近くにファンが『いる』のであれば、ドルミルは翠の一挙手一投足まで真似る必要がある。――うん。これは途中で止めておいて正解だった。
「じゃあ、行ってくるね」
「頑張ってお姉ちゃん」
スタジオの中央=ステージの中央に歩いていく翠。アコースティックギターと丸椅子が置かれている。椅子の方は『物質』で、ギターは『ARオブジェクト』である。翠曰く、「ARの楽器はミスした部分だけを正しい演奏と置換えてくれる」らしい。指の不調もこれで乗り切っている。
『配信準備中』
-00:53
ステージと客席の間――翠と視聴者の間を、大きな硝子の壁が隔てている。壁の向こう側には、まだ翠の姿は見えていないようだ。取り出した硝子板をタップして衣装選び、瞬時に身にまとう。
――え、このタイミングで衣装選んでたんだ。ルナは驚いた。緊張を解すための、ある種のルーティンなのだろうか。
「あ。ドルミル!」
思い出したように、こちらに呼びかける翠。
「今日は小さい箱だから、近くでちゃんと見ておくこと! いつかやってもらうからね!」
「え……」
笑顔で正面に向き直る、シンガー・ソングライター『翠』。それを舞台袖から見ている、違和感。
『配信準備中』
-00:00
前触れ無く消える壁。
ヒト、MEME、ヒト、MEME、ヒト、MEME、MEME、MEME……。
――「翠ちゃん久しぶりー!!」
――「待ってたー!!」
歓声。
「ハロー元気ー! 今日も翠と遊んでこー!!」
かくれんぼ
――時系列がわからない、とドルミルは思った。霧の掛かった、全体的に白い景色。霧の向こうに、巨大な黒い半球が見える。数百はいそうなMEMEが、自分の周りをうろついている。
ああ、なんだか前にもあったような感覚。どこかで聞いたことがあるような体験……何という名前だったかな。……思い出した。『夢』。ヒトが寝ている間に見聞きする、主観体験。それを見るのはヒトだけ。MEMEは見ない。――あれ? ドルミルはヒトじゃなかったような。あれれ?
「アアー! やっと戻ってきたアなあ!」子供の声。
「ひ」
「オマエー、おれのことキライ?」
「わ、分かんない。誰」
無音。――右耳に風が当たる。
「だぁれだ」
「いっ!?」
飛び上がって逃げる。怖い。何、コイツ。
「どこに、いるの」
「みえないのー? いるよー? オマエのそばに。いるよー?」歌うように嘲る声。
「見えない」
「アアー。『MEMEはユメをみない』だねエー! ア!」
そうだ、思い出した。前にもここに来た。――前? 後だっけ? まあいいか、たしかその時は――。
「アリクイ! どこ」
「いーからあそぼー。ハロー?」
周りを見渡す。それらしきMEMEはいない。
「なあにイ? かくれんぼ? おっけー。……かアくれんぼすーるひとこーのユビ――」
「アナタ、もう隠れてる。出てきて」
「とーまア……レ!」
「ぐッ!」
瞬間、体が宙に浮く。水平方向に引っ張られる。MEMEの雑踏に向かって飛んでいく。ぶつかる――。
異音。ドルミルの通る――飛ばされる道を開けるようにして、MEMEたちが次々と目の前から消える。目の前のあったMEMEの群れが、一本の直線で割かれる。
「ううッ!」
急停止する体。まだ浮いたまま。――何が起きたのか分からない。痛い!
「みえたア?」
「あなた、は」
目の前に、何かいる。きっとこいつの仕業だ。
焦点が定まる。――小さな黒い球体。いや、ドーナツ? いや、毛が生えてる。
……猫?
「オマエは、『眠り』。おれは『夢』」
――「せいぜい『捕食』されないように気をつけなよ」、あの時のアリクイの言葉。
「嫌だ! 離して! お姉ちゃんどこ」
「おねーさんはオマエをスてる気だぞ」
主人公の苦悩
仕立は依頼者が来る30分前にはその場にいることにしている。記憶編集に際して、そのほうが何かと都合が良かった。自分が依頼者より後に現れた場合、「すでに自分の記憶は編集されていて、この悪い記憶は編集者が植え付けたもなのでは」と、自分のいない間に勝手に思い込んでしまっていて、あらぬ濡れ衣を着せられる。
もっとも、その濡れ衣を着ることは、どちらにせよやろうと思えば可能である。自分が30分前に来ようが、今回みたいに依頼者が1時間遅れようが――。
「すみませんね。テイラーさん。KALMの聴取が長引いて」
「いえいえ。あのお硬いKALMの事情聴取とあれば、しょうがないですよ。えーっと、名前は……『無し』でしたね。――しかし、映画でも名無しとは、これまたなんとも。『主人公』さんとお呼びしても?」
「まあ、それで」
「除霊師、最近は名無しを目の敵にしてるらしいじゃないですか? ……映画の主演まで務めてるんです、名前ならいくらでももらえるでしょうに」
「他人の夢を背負うってのは、制約と同じだ」
「……なるほど」
「――それで、だ。『プロトコル』公開以降、監督に対する、業界関係者の風当たりも強くなってる」
「それはまた。お気の毒に」
「……死のうとしたんですよ。彼。重体。まだニュースにはなってないけど」
「……そうですか」
「目の前で。……オレの目の前で、バケツ蹴ろうとしやがった!」
静寂。
「……監督はオレになんて言ったと思う?」
「……なんと?」
「『同情の演技も主人公級』」
「ああ……」声が漏れる仕立。
「……すみませんね。編集者さんにいうようなことじゃない。始めてくれる?」
「……よく考えてください。ホントにいいんですか? ホントに、忘れますよ?」
「忘れたいから来たんだ。早くしないと、またグチグチこぼし始めますよ」
「こぼしてくれて結構ですが」
「じゃあ、最後に。――なあ、編集者さんよ。『ヒトはなぜMEMEをつくったか』って、決り文句。あるだろ? なぜつくったと思う」
「なぜ、でしょう」
「オレは思うんだ。こりゃ、一種の『免罪符』さ。ヒトの罪を、集団の罪を、一点に集約するための免罪符。コンテンツのためにMEMEを作るのは、映画のためにMEMEを使うのは、集団がヒトを殺すことを忘れるための暗示さ! 監督を殺そうとした人間は誰だ? 誰でもない! 『ヒトの集団』だ。……そこから目をそらして、やれ事故が起こればPM-55『自動車』が悪いだの、やれイジメがあればPM-32『学校』が悪いだの、偶像化した自分たち自身を槍玉に挙げて、めった刺しにしてこう言うんだ――『バンザイ! 私たちの正義!』。……なに? あれは。ありゃ正義なんかじゃない。『主体』の増刷……『被責任の的』の発行。臆病者たちの、それこそ『演技』だろ?」
「そう、ですね。集団心理は免罪符じゃない……」
こういった意見を持つ依頼者はこれまでにも多かった。彼らに共通しているのは、より明るい社会のあり方がどこかにあると、信じていること。
――そして結局、記憶編集をしないこと。
「では誰が悪いのでしょう。集団の構成素たるヒト? 彼らの言い分はこうです。『斯々然々――まあ、少なくとも私個人の責任ではない』」
「ああ、そうとも!」
会話が勝手に転がっていく。結局、数十分は話が止まなかった。
一呼吸おいて落ち着いた様子の『主人公』が、一転して弱々しくこぼす。
「……忘れる前に……最後に誰かに、伝えたいと思ってしまった。『代わりに抱えてほしい』と思ってしまった。無責任です。オレもアイツらと同じだ」
「まあ、話の分かる人で良かったよ。……そうだ。編集は一旦待ってもらえますか」
「ええ、ですよね。……カウンセリング料はかかりますが、それでもよければ」
「え、お金取るの? ……言ったでしょ、オレ、名無しだし、飼い主なしなのよ。飼い主の財布なんかないの」
依頼を受ける際には、その旨を提示しない。仕立は敢えてそうしている。
「じゃあ……遊郭にでも行きますか?」
MEMEの風俗的転用は、今日の一大産業を築いている。
「……まさか、稼いでこいっていうんじゃねえだろうな。そっちの趣味は――」
「まあ冗談です。私も、飼い主のウォレットは持ってませんので、お金は要りません」
「じゃあ……何を払えば」
「情報で、お支払ください。『MEMEに経済活動への参加は許されていない』……ありゃ正確ではない。ヒトが使うお金という形式など、MEMEにとってはただの制約です。何の知も生まない。『知には知を』……でしたっけ? 定石でしょ? あなたたち名無しの」
仕立は『主人公』に硝子板をよこす。
Flitter
@nurunuru_obake
これってもしかして #物理的におかしい
「『知は知で払え』、な。わかったよ。でも、ここじゃあれだから」
「では、島原散歩といきましょうか!」
「……島原は花街と言ってくれ」
「あれ、あんたその名前『自称』か? 命名済みだよな? 飼い主のウォレット、使えないのか?」
「はい。彼女はまだ子供ですし」
「はっはっ。子供の命名を受け入れるって……あんた、物好きだね」
「どうも」