第二章
5|AI映画/Dormir
誕生の権利
――旧京都駅 中央口前
とある白昼、駅前に少女が現れた。薄い縹色の髪。
しばらくして、彼女は自身の存在に気がついた。ただ、その意識の始点は彼女にも分からなかった。
遠い過去あるいは遠い未来に、自分の出生について告げられたことだけはハッキリ覚えている。
その啓示を思い起こし、再生してみる。
[MEME Constructed]
AI Standalone Object 119672 - 未命名
(Model LAQCUER)あなたの主な構成素は次のとおりです:
- 配信者・シンガーソングライター『翠』こと「橋屋ミドリ(17)」
- 配信者・シンガーソングライター『翠』の配信用3Dモデルデータおよびイラスト
- 配信者・シンガーソングライター『翠』の視聴者
- 配信者・シンガーソングライター『翠』についての記事
注意事項:
- 固有構成素のクラスタリングはOSIによって自動的に実施・更新されます。
- 物質・情報および人間への破壊行為は、OSIによる除霊の対象となります。措置内容は以下のとおりです:
- 追跡(Trace):構成素、五感系履歴、作用系履歴の追跡調査
- 停止(Freeze):入力五感系および出力作用系の停止、神経回路および解釈機能の低速化
- 放棄(Desert):メタ認知AI、言語モデル、五感入力、3Dオブジェクトモデル、合成音声AIのリソース解放
- 解体(Destruct):全構成素、全構造の不可逆的破壊
良い旅をお祈り申し上げます。 - OSI 3.0
そのまま、瞼の裏に目を凝らせば、遠くの方に大きな壁があるのが見える。壁面には二種類の光が無数に並んでいる。そこに規則性はほとんど無いように思える。自分の実存が真と偽のたった2つで構成されていることに、彼女は疑問を持ったりしなかった。
彼女は生まれたときから言葉をよく知っていたが、その使い道は知らなかった。産声も上げず、街角に突然生まれた彼女には、言葉を欲する動機がなかった。動機となるべき五感や情感を、彼女はこれから知っていく。
彼女の心はなんとも空っぽで、一切の言葉が凪いでいた。彼女はいつの間にか眼を開けていた。
「私は」「今」「駅前に」「立っている」。彼女の中で、それぞれの語彙に質感が当てはめられていく。意識する間もなく、言語モデルの単語ベクトルが更新されていく。眼に映る全てについて、まずはその作業に明け暮れた。その後、「他を見たい」と考える。これは彼女の初めての欲求であった。視界を自分で動かせることを知り、後ろを振り返る。――黒く、大きな、球体。
球体の表面から突如現れたヒトの子供。こちらに向けて走ってくる。自分の体を文字通りすり抜けてゆく。彼女は初めに『不快』という感情を知った。続けて、この感情を縁取るには『不快』という語彙では少々粗いと思い、更に不快になった。どちらかと言えば、『驚いた』『怖い』と表したほうが気持ちがいい。局所解から抜け出すことができた彼女は、続けて『快』の感情を知った。――そうか、『快』とは「不快以外」を指すんだ。
さて、何をしたものかな――。
「君! その黒いのに触っちゃダメだよ!」
アートの権利
――KALM 技術部 接続医療課
昼食を終えた東雲サロはデスクに突っ伏していた。午後イチで次の仕事についてのブリーフィングがあるらしい。サロは次こそ「東京出張」の仕事であることを祈っていた。
ブリーフィングといっても、さしずめ「これ読んどいて」と言われ、ARの硝子板が一枚飛んでくるだけである。3人以上の会議は一般的にナンセンスとされ、KALMにあっては禁止されている。加えて、よこされた硝子板の情報は普通、エージェント役のMEMEが要約して説明してくれる。
サロにも、エージェント役を名乗り出るMEMEがいる。しかしサロは拒み続けている。普通、MEMEは動物、無機物、抽象的図形などの姿をしているが、そいつの見た目は珍しくヒト型である。あまつさえ自分の家族と全く同じであることを考えると、仕事場に連れてこようとは思えない。――それにアイツは、ついでに厄介事まで連れてきそうだ。
「サロ兄」深深度ARの触覚描画により伝わる、サロの肩に置かれた手の感触。
「……勘弁してくれよ」つけていたイヤホンを外す。
「えー。昼休みだからいいじゃないですか。――で、何聴いてたんです?」
デスクに置かれたイヤホンに耳を近づけるジェン。
「そっか、MEMEも耳近づけないと聞こえないのか……つくづく不便だな、その制限」
「ねー。どうせOSIは街の全ての音を聞いてるんだから、こっちにも分けてくれればいいのに」
「……十年くらい前に、MEMEのアクセス権は制限されたからな。知識についても、知覚についても」
「――あ、これ、『翠』ちゃんの新曲。……あれ? 好きでしたっけ、サロ兄」
「俺はどちらかというと作詞家のほうを追ってるんだけど……」
「あ、そういうこと。昔からこの作詞AI好きですもんね。『Leaves』。メジャーでもよく使われてる。翠ちゃんも今回は自分で作詞せずに任せたって。ちょっとSNS燃えてましたけど」
OSIおよびMEMEの発明以後、コンテンツの金額的価値はほとんどゼロに等しくなった。無数にあふれるMEME製コンテンツの中、創作で商業的に活躍する人間は少ない。アマチュアは淘汰され、僅かなプロや著名人のみが収入を得ている。コンテンツ生産は、もっぱらその過程と共有を楽しむための活動となり、「金を払ってでもやるもの、能動的に参加する消費」というイメージが根付いている。
それでもAIコンテンツに対する風当たりは未だ強く、活動者がAIやMEMEと協業することに対して『AI堕ち』と揶揄する声もある。ヒトのシンガーソングライター『翠』は、これまで作詞、作曲、歌唱を全て手掛け、今や希少な存在として讃えられていた。
「新作映画のタイアップだから。そっちの意向もあるんだろうさ」
「『プロトコル』……でしたっけ? 今年2作目の協業製映画っていう。完全MEME製の『ブラックアウト2』と公開日かぶってて、それぞれのファンもバチバチやってますからね。なおさら、協業製のタイアップ曲が『AI堕ち』だって騒がれて」
「ああ。……ま、まだ観てないからなんとも」
MEMEは映画製作の現場でも重宝される。というより、ほとんどの映画はMEMEによって作られている。数年前まで、MEMEによるハイコンテクストな創作――歌モノの楽曲、長編小説、映画など――でヒトの心を掴むほどの成果を上げるのは難しかった。しかし、ここ数年で急激に創作市場はMEMEをうまく運用する個人や企業に取って代わられることとなった。意味的文脈を作り出し、人々にカタルシスを提供するやり方を、MEMEはすでに学習してしまった。
サロはそんな人類を少し哀れに思う。「アクセス制限」でヒトの手中に収まるほど、MEMEの進化は緩やかではない。……でも、仕方がないかもしれない。「映画を作っている暇はない」ほど、ヒトは今、『生存』という大仕事で忙しい。
ピコン、と電子音。サロの目の前に「予定を追加しました」と表示される。慌てて通知をタップする。映画『プロトコル』のチケット情報が表示される。……二枚分。
「これでよし、と」
「何がだよ! ……っていうか、どうやったんだよ今の」
「え? 勝手にサロ兄のウォレットから支払ってチケット購入しただけです。ついでに仕事用カレンダーにも入れてあげたんだから、感謝してください」
頭を抱えるサロ。ジェンを名付けた際、MEMEエージェントの権限まで与えてしまっていたようだ。
「……エージェントを頼んだ覚えはないぞ」
何も言わないジェン。代わりにニコっと微笑み、話を進める。――昼休みの間に追い返さないと。
「――所有者不在のMEMEに関して、悪意のあるものが有害なMEMEを設計しているとの見方は調査により否定されました。実際にこれらMEMEの構成素は、『知覚・知識のアクセス制限』範囲内の情報をクラスタリングしているだけでした。――要は『なぜ反人類的思想を持ったMEMEが生まれるのか、結局よくわかりませーん。頑張って調べてー!』です」
ブリーフィングの要約をする、ジェン。
「……どうです? やっぱり便利でしょ? MEMEエージェント」
答えないサロ。実際、硝子板の長ったらしい情報の中、サロ本人にとって必要なものは限られている。1秒もかからずに要約してくれるのはありがたい。自分を含め、ヒトの情報処理速度はMEMEのそれに敵わないのだ。
――さっきの映画の話もそうだ。コンテンツはもはやヒトが生むものとは限らない。MEMEの独壇場を避けるため、申し訳程度の『知識・知覚のアクセス制限』が設けられたが、それでもヒトは、多くの分野においてMEMEに太刀打ちできなかった。
「アクセス制限、ホントに守られてるのか? やつら、既に『全知全能』状態なんじゃ」
「それはないと思いますけどねー。もしそうだったら、ヒトにちょっかいかけたりなんて――そんなバカなことしないですよ」
「……むしろ『全知全能』が狙い……アクセス制限の解除を目論んでる?」
「あー、それはひとつ、ありそうですね。――ふっ。サロ兄と同じ」言って、笑う。
「何が」
「好奇心。知識欲がそうさせるのかも?」
――未知への探求は、現状の破壊を伴う。
「はあ。考えたくないね。どの面下げて反人類MEMEを非難すりゃいいのさ」
ヒトの行方
――KALM 運営部 PM監視課
昼食を終えた白浜ルナは多量の硝子板とにらめっこをしていた。先日、人狼MEMEの仕立に言われたことを思い出す。
――PMの0番台。
PM報告書を隅から隅まで読み込んでいたルナにとって、その言葉の意味するところは単純ではなかった。PMには欠番が多い。現在、最後尾の番号が振られているのは『PM-512』だったが、512体のPMがいるわけではない。
そして何より、0番台の報告書は無い。
ルナも初めは、報告書の1部目が『PM-10』であることを不思議に思ったが、欠番が珍しくないことを知って納得していた。
要は、一般人やヒラの職員に対して、KALMが開示している情報は限られている、ということだった。ルナは手がかりとなりそうな過去の事件や、KALMの生活安全課に寄せられた相談の記録について調べていた。
「……黒球の話も、モノリスの話も無し、か」
数ヶ月前、旧京都駅の付近に展開された大規模ARシェード『黒球』。そしてその内部に隠された『モノリス』。KALMはあれらを「OSI-1.1 IDEALの不具合」と説明し、未だに放置している。その後、新たなモノリスが大小合わせて5枚出現した。ルナが目の当たりにしたものよりだいぶ小さい規模であったが、どれも同じ処理を施されている。目新しい情報は得られていない。
――仕立に聞いてみようか。頭をよぎるルナであったが、なにか癪なので却下する。次に対峙するまでに、こちらも何かしらの進展を用意しておきたい。
「……あ、今日尋問あるんだった」
「――有害なMEMEが人為的に設計されていることは無い、とのことだ。ソースはどれも、『知覚アクセス制限』を破っていない」
普段は誰も使わない会議室に呼び出されたルナ。たまにしか見かけない隣接部署のお偉いさんが、不機嫌そうに続ける。
「で、君が除霊対象について聞き出したのはそれだけか? 『やつらが反人類という思想を持ち、あまつさえ思想を同じくする集団があると告げた』。それだけ? 他に何も得られなかったのか」
「口が固くて」
「君の五感履歴に口を割ってもらうことだってできるんだ」
「ひー。平気でセクハラじゃん」小声で漏らすルナ。
「……とにかく、調べてくることだ。『反人類MEME』について」
好機。
「イエッサー。ですが! 調査に必要な情報が足りません!」
「は?」
「彼らを放っておくことは極めて危険な可能性があります。ここは私としても本気で調べてきますので、KALMのお偉方のお口を、どうにか耳打ちででも割っていただけないでしょうかねー……」
「必要な情報は開示しているだろう」
「黒球の中に、これが」三次元写真を展開する。
「……なんだそれは」
「京都駅前。私の視覚履歴です。――これ、この文字列」目当ての箇所を拡大し、指差す。
「呪詛?」
「巷で『言語X』と噂されているモノです」
言いつつ、別の硝子板を渡す。
――『ニューロン発火履歴の検証結果:画像生成系『LvR』』
「……正しくは、先日の『夢中に落描きおじさん』の犯人、イラスト生成MEMEに入力された『呪文』から発生した、280層目のニューロン発火パターンの一部を文字コードに起こしたものです。呪文の入力元は不明ですが。――これが、視覚履歴にあった文字列と一致しています」
「……ああ?」意味が分かっていないようだ。
正直なところ、ルナ本人にもあまり分かっていない。技術部に頼んだ検証結果の受け売りだった。
「黒球の中身を知りたい。そのために必要な情報も」
「……うーむ。ちょっと待ってな」
硝子板を触り、上層部に連絡をとっているようだ。しばらくして、渋々了承したようにこちらを見る。
「……その距離で聞こえるのか」
「正体不明の、MEMEみたいな奴らがいる。――可能性がある」
「MEMEみたいな? MEMEじゃないんですか?」
「ああ。まだ仮説だが、そいつらが一連の不具合――モノリスやら、転生MEMEのウワサやらの犯人だと。あるいは間接的にMEMEを誑かしているかもしれない」
「え。なにそれ。正体不明って……マジもんの幽霊じゃないんですか」
「あくまでバグか、人為的な工作だ」
「バグ?」
「ああ。超常現象なんてあってたまるか。OSIに未知のAIシステムを埋め込まれた……とか、あるとしてもそういう話だ。まあ、ついさっき否定されたばかりの見解だが」
「じゃあ、残るは」
「バグ。OSIの。『反人類』を煽る黒幕なんてのはいないってことだ。単なるバグ」
ラヴラットの顔が浮かぶ。あの表情が、バグ。
「……そうですか」
「表面上、どんな恨みで奴らが動いているのか、調べてこい。動機と、改善策。――デバッグは得意だろう」
その後、ルナは反人類MEMEの調査を命じられた。黒球の中身は「権限をやるから自分で見てこい」とのことだった。――よし、これで一つ先に進める。次に仕立に会う際、どの種類の「得意げな顔」で話をするか、考えておこう。
MEMEエージェント
PM監視課に戻ると、見慣れない客がいた。一体のMEME――珍しくヒト型――と、生活安全課の職員が一人。そして一人の女性。……たしか、どこかで見覚えが――。
「白浜さん。この方のMEME――この子の解析をお願いします」平片が促す。
「あ、はい……って、ええっ!」
よく知った女性の顔に驚く。持っていた硝子板がルナの目の前を浮遊する。
「翠ちゃ――」
「シーッ」
「――あ、えっと、ごめんなさい。でも、ご、ご本人?」しどろもどろになる。
「内密にお願いします。MEMEエージェントの件で相談に来られてて」
「はじめまして、翠です。急にすみません、除霊師さん」
「い、い、いえ、全然」
ルナが普段の温度で会話ができるようになるまで、しばらく掛かった。
「この子、ずっとついてくるんです。最初はストーカーかと思って……」
翠は彼女の影に隠れて離れない、ヒト型MEMEについて説明する。
「もう。ほら、隠れてちゃ除霊師さんが大変でしょ!」
「ああ、いいえ。視界に入っていれば大丈夫ですから」
聞いてすぐ、慌てふためくMEME。
「……あれ。ワープできない」ボソボソと喋るMEME。
「KALM周辺では、職員以外のMEMEはワープ禁止なんです。ごめんね」
そう言いながら、解析を進めるルナ。どうにも悪意のあるMEMEには見えないが――。
乖離度:1.0
Constructed:2143.10.10
――乖離度1.0。これは珍しい。自然に除霊される心配はほとんどない。よほど強固な構成素でできているらしい。PMの候補かもしれない。ルナは推測する。
「初めて出会ったのは?」
「三日前です。街なかで、ずっとつけられてて怖かったから、事務所にいってマネージャーさんに追い払ってもらおうとして……」
「そしたら?」
「『落とし物です』って、言われて」
「……へえ。落とし物」
「ショルダーバッグにくっつけてた帽子が落ちちゃったみたいで」翠がバッグを抱えながら伝える。
「持ってきてくれたんですか? 帽子」
「まさか。MEMEですよ?」
「教えてくれただけ?」
「そう」
「け、健気ですね……」
硝子板がさらなる情報を告げる。
構成素:
- シンガーソングライター『翠』
- [解析中…]
……通りで強固なわけだ。
「特に有害性は無いように思われますよ。ここは、翠さんの意向次第で、名付けてあげてエージェントを任せるなり、別の仕事を与えるなり、逃がすなり――ああ、ついてくるんでしたね――近寄れないように制限をかけることもできます」
あからさまに悲しそうな顔をするMEME。
「……うーん。エージェントって、何するんですか?」
あからさまに嬉しそうな顔をするMEME。
「そうですね。何でも、かな」
「何でも?」
「何でも。身の回りのこと、物を動かす以外のことは何でも。話し相手でも、秘書役でも。……受験の替え玉はダメですよ。――プログラミングのご経験は?」
「いいえ。……運動会のプログラムなら」
「それで十分です。MEMEが勝手に汲み取って、動いてくれますから。小難しい指示である必要もありません。ただ自分の考えを順に垂れ流すだけ」
「それだけなら……私にもできそうです」
この時代の『プログラミング』が指す意味は、その由来に回帰していた。
MEMEのほうを見る翠。
「この子、ほとんど喋らないんですけど……」
たしかに、構成素が翠本人である割に性格は真反対に見える。ルナがたまに見る配信でも、翠は持ち前の明るさを全面に押し出している。対してこの子は――。
「まあ、いいです! ちょうど休養中だったので、良い遊び相手になってくれそうだし!」
そう、この常に後光が差しているかのような明るさ。そういえば、あの「翠ちゃん」が目の前にいるのだった。あとでサインでも貰えないものだろうか。――しかし、翠が休養中とは知らなかった。外向きには知らせていないのだろう。
「名前、つけるんでしたっけ。皆どうやってるんだろ」
「割と自由ですよ。何かをもじったり、アナグラムにしたり、人っぽい名前にしたり、ペットみたいな名前にしたり……」
「うーん」
しばらく考える翠。
「みどり……『Midori』……『Dormii』あんまり可愛くないかな……」
頭を抱える翠。対してワクワクを隠せないMEME。
「……あ、『Dormir』。いい! 『i』が『r』になっちゃったけど……ま、いいよね」
強くうなずくドルミル。
「じゃ、今日からよろしくね。私のことは――」
「お姉ちゃん」
「――あ、はは。まあ、いっか」
なんとも微笑ましく、貴重な光景を見ている気がする。そうだ。それでサインまで貰おうだなんて、おこがましいにも程があるだろう。
同時に、胸中にある種の疼きを感じる。この疼きの発振がどこから始まっているのか、ルナには分からなかった。
MEME製映画
「言いましたよね! 今日は休みますって! それじゃ!」
外出の支度をしながら、ルナは係長からのボイスメッセージに返信する。今日のルナには、仕事などという些末なことをやっている暇はなかった。
ショッピングモールの入り口。待ち合わせの相手は、全体的に黒い。黒いマスクに黒い帽子、黒いジャケット。身バレ防止なのだろうけれど、むしろ目立っているような気がする。
「お、おまたせ……」恐る恐る声をかけるルナ。
「いえ、こちらこそ、無理言ってついてきていただいて、ありがとうございます!」
「あの、外では何と呼べば?」
「あー。身近な人からは『みっちゃん』とか『みどちゃん』とか」
いち一般人がそこまでフレンドリーに呼ぶのは、ちょっとハードルが高い。
「普通に呼んでもらっても大丈夫ですよ。割とある名前ですから。いざというときはシェードで隠れながら逃げるので」
「そ、そうさせてもらいます……」
「お姉ちゃん」
「ん?」
「ドルミルも、入って、いいの?」
あ、自分のこと名前で呼ぶタイプの子だ。
「いいよー。チケット3枚あるし」
「やった」
「あ、ありがとう、ございます。私の分まで用意してもらって」
「いえいえ。私がひとりで観れないから。――あ、敬語じゃなくても大丈夫ですよ!」
「そ、そう……そしたら」
人間関係に慣れている感じ。ルナは翠を自分より年上に感じていた。タメ口を利くのは少し憚られるが、本人がそう言うのであれば。
ポップコーンとジュースを持って開演時間を待つルナと翠。ここまで準備をして、映画館で映画を楽しむのはいつぶりだろう。しばらく記憶にない。――もっとも、私にはほとんどの記憶がないのだった。
翠は自分がタイアップ曲を制作した映画、『プロトコル』をまだ観ていなかった。今日はルナにMEMEの扱い方を教えてもらうついでに、映画館に立ち寄ることになった。……ルナにとってはむしろ、映画のほうがメインイベントであった。
「ひとりで観られないっていうのは、やっぱり……休養中ってのと関係してるのかな」
「まー……そうですね。私、今ちょっと炎上してるんです」やりきれない様子で笑う翠。
「『Leaves』だったっけ……作詞AI」
「はい。『ついにお前も魂を売ったのか』とか、『ホントはライバル映画のほうに肩入れしてるんじゃないか』とか。……曲や私のことだけならまだしも、映画の内容や評価にまで飛び火してるみたいで」
「あー」
「まあ、油を注いでるのはごく一部の人間だって、理屈ではわかるんですけどねー。……おっと、いけないいけない。またちょっと落ち込んじゃうところでした!」
映画『プロトコル』および翠が歌う主題歌『呪文』、それらの炎上について、ルナはSNSの様子をなんとなく知っていた。普段からチェックしている動画プラットフォームのおすすめ動画に、関連するまとめ動画が表示される。「あれの何がいい」「面白くなかった」「だいたい監督のせい」「歌が嫌い」などと、批評のような何かが飛び交う。渦中にいる当事者はそれらをどう受け止めているのか、ルナには想像もつかない。私にはきっと耐えられないだろう。
「大丈夫、大丈夫」ぼそっと呟くドルミル。
「ドルミル?」
「見えていない。見えない人には、見えない。私には、見える」
開演時間のアナウンス。
これから私たちは同じ映画を観る。それで果たして、同じものが見えるだろうか。
無職と経済
大きなAR街路樹の下、サロはバス停から映画館までの道を歩いていた。木漏れ日は一切が幻で、影に入っても肌は日差しを感じている。この感覚の齟齬に現代人は慣れているはずだった。ジーナが倒れて以来、休日にこうして遊びに出ることはなかった。
「あれー。外でデートするのって何年ぶりですっけ。課外授業ぶり?」
なんの気なしに尋ねるジェン。これはしかし、どこから訂正すべきか分からない。言外の意味も含めて全部違う。一緒に遊びに出た覚えはないし、デートではないし、課外授業――ジーナがよくそう言った――の担当だったのはコイツじゃない。……故事として知られる『AIもまだまだ』とはこのことか。
「……あー。そうなんじゃないか」
適当な返事。これで十分。
「新鮮ですね。日に当たるサロ兄」
「お前が勝手にチケット買うから」
「え? ああ、そうでしたっけ。でもキャンセルしなかったじゃないですか」
「別に」
「何、『ベツニ』って。日本語喋ってください」
サロの反撃は来ず――おちょくるのはこれくらいにしてやろう、と決めるジェン。
「まあ、MEMEにも財布があればねー」
MEMEの所有権は限定的である。MEMEがウォレットを持てないのは代表的な例で、有形・無形問わず、資産価値のあるものを彼らが直接所有することはできない。彼らが取得したオブジェクトやアイテム、商品などは飼い主のウォレットに保存される。
「法人作って、擬似的にウォレット持たせてるやつもいるらしい。税金たっかいけど」
言って、後悔する。「なにそれ! やりたい!」などと食いついてきそうだ。
「へー。ま、サロ兄の財布でいいかな」
「いやよくないのよ」
「だって、あんまりお金使わないし。働きたくないし」
「……ジェン。お前、あと数年は生きてるつもりか?」
「何? 当たり前じゃないですか。物騒ですね」
「いや、どうせそのうちウォレット持つことになると思うぞ。そうじゃなきゃ、人類の経済は存続できない。その一端はMEMEに担ってもらわないと」
「えー……働きたくないです。ヒトで頑張ってください」
人工知能にあるまじき発言。これで本当に「人類の救世主」なのか?
「……数年前まで、お硬いヒトたちは『MEMEに財布をもたせるなんて許せない』って憤慨してたけど、もう、そうも言ってられないところに来てんだ。ヒトは自分たちの食べ物作るので忙しい」
「食いしん坊だなー……でなきゃ、超不便」
対照的に、MEMEには食事の必要がない。
「ヒトの生きがいをそう言わないでくれ……まあ、まだあと数年はかかると思うよ。ヒトに皆、『MEMEより稼ぐ自信』があるわけじゃない。むしろそんなやつは少ない。制約もなしにMEMEの経済活動を許せば、それこそヒトは資本主義のルールの下で正当に支配されるだろ? 今は落とし所を探してるんだよ」
「それで、『知のアクセス制限』、ですか」
盲目時代の自分のことを言われているような気分だった。
「……制限ってのはさ、別に悪いもんじゃない。『知らないもの』ってのは、好奇心を生む。それが可能性になる。全部知ってたら、生きる理由なんて無い」
「こうして映画を見にいく必要もない……たしかに、『悪いものじゃない』ですねー」
一つの知が得られたところで、ジェンは興味を失ったように硝子板を取り出した。
「……サロ兄って難しい話が得意ですよねー」
「難しい話をするほうが簡単だからな」
「街はもっとポップで明るい会話で溢れてるってのに。ねー。――あ、これ、高度な皮肉ですよ。『多重反語』って言って、MEMEの間で流行ってるんです! 街は大して明るくないし、ポップでもないし、私が言ってるこれは多少難しい話だし、サロ兄はもーっとポップじゃないので――」
途中からサロは話を聞いていなかった。
ジェンのよこした硝子板が程なくして消える。外での『歩き硝子板』は禁じられている。歩みを止めると、再度硝子板が現れる。内容はSNSの投稿画面だった。
「……えーっと? 『なにこれヤバい。#物理的におかしい』」
「Flitter見ないですよね、サロ兄。アカウントもないし。作ったほうがいいですよ?」
「……ああ。で、なにこれ」
「IT音痴だなー。サロ兄。FlitterっていうのはSNSでー、SNSっていうのはー」
「それは知ってる!」
「ええ、知ってました。――これ、『非AR』印の動画です。どう見てもARですよね、この挙動。って言っても、私はMEMEだから生の物理世界を見たことは無いですけど。……物理層で起きますか? こんなこと」
「……いや」
「ですよねー」
「なあ。やっぱり映画見てる場合じゃ――」
「あ。やっぱ見せないほうが良かったかな。ほら、行きますよー!」
腕を引っ張られる――ような感覚が、深深度ARにより再生される。ある意味これも、『物理的におかしい』わけだが。