19. 物理現象エミュレータ
――KALM医療棟。
「……言語は……宇宙のエミュレーション……言語現象ってそういう――ねえジーナ……分かった……分かったかも知れない!」
「う、なに……急に」
「脳の中の宇宙は、不具合まみれだ。不具合で……可能性で一杯だ。少なくとも、僕のは間違いない」
一体何の告白なのだろう、と思うジーナ。
「妄想や想定が……言語が物理現象を超えられるのは、脳みそ宇宙……脳の言語空間が、確率分布をも、不確定性原理をも、都合よく想定できる欠陥品だからだ。僕らの言語機能は、欠陥だらけの宇宙エミュレータなんだ」
「……? それで?」
始まってしまった、兄のよく分からない演説。ジーナは癖で促してしまった。思えば、この男の子は逆境からの回復力が取り柄だった。他者に非を責められるほど、罪を背負うほど、亡霊に憑かれるほど、燃えるタイプなのだ。
「MEMEを動かすQLLMは、人間の言語機能を模してる。それに、人間の脳も少なからず量子系を用いてる……はず。何億体分も、何億人分も、欠陥エミュレータ同士を相互に繋いで、街のあらゆるシステムを作ってしまえば……現実すら、マクロの物質すら、可能性のゆらぎに巻き込まれてしまう……僕らは今、『シュレーディンガーの猫』の箱の中だ。――そして、好奇心は猫をも殺す。抑えきれない自らの妄想で、人類は死んだ――ねえジーナ。そんなことがありえるかな……?」
「……? んん?」
「ごめん、とっちらかってて。……一旦整理しよう。――ミクロの粒子は、その位置がまるで保留されているような振る舞いをする。ある時は粒子として、ある時は存在確率の波のように振る舞う。その『ある時』っていうのはざっくりいうと、『見られているか、そうでないか』。――そういう、ミクロの世界では当たり前に起こっている現象が、今、マクロの世界でも起こってる。要は、この世界、少なくとも地球周辺の現実は今、『下書き段階』なんだ。それで、一見ありえない物理……今回の『超常現象』が起きてる。トンデモ出力の仮説推行も、その影響かもしれない……」
「……何となくわかった……かも?」
一通り説明責任を果たしたような顔をし、再び考え事を始めるサロ。
「意識――観測系の構成単位が量子系なのだとしたら、OSIはほとんどそこにリンクしてマクロ系を作る試みだから……系外部の作用によるデコヒーレンスが起きていない……QLLMの設計ミス……? 原因はわからないけど……現状を科学で説明するなら、それくらいしかない……そうか、大丈夫、科学はまだ生きてる!」ジーナに訴える。
「……よかったね」
「揺らぐ現象の中にいる……確定した因果を、僕らは誰も知らない。この巨大量子系を観察する観測者は、系の外部にいないから。――やっぱり、蓋を開ける前の猫同然だ。……でも、重なり合う可能性が同時に顕現することはないはず――ああ、いや、顕現してるんじゃない。デコヒーレンスが抑制された、観測できないはずの可能性干渉を……観測してるのかも」
――サロにとって今の私はほとんど、音声をぶつけるための壁なのだろう。ジーナは思う。
「……ああ……はい」
「どうすればいいんだろう」
「はあ? そんなのわかんないよ。説明、プリーズ」
「量子と古典の境界が、飛び抜けてズレた状態ってこと! 起こるはずのデコヒーレンスが――」
「それじゃ分かんないの!」
「なんでだよ! どこが分かんないのさ!」
二度目の兄妹喧嘩がすぐそこに迫っていた。
20. 消しゴム
――防御壁内。
ルナはハンナの手のひらを眺めていた。――編集者のテイラー。この期に及んで、この人狼は気の利いた一言すら言ってくれないのだ。
「で、何。……知ってるってば。編集者のテイラーさ――」
――いや、そういう意味じゃない! 急速に思考を方向転換させる。
「待って、どういうこと! まさか、あなたどこから」
――ありえないありえないありえない。やっぱりこの人狼。
「時間の終わりから、あるいは時間の外から。……あなたたちを助けに」
「やっぱり騙してたの! 何を!?」
「あ、ちょっと。落ち着いて……『さっき思いついた』って言っても信じないでしょ?」
「信じるよ!! 何だっていい! ……私はどうすればよかった?」
「大丈夫。あなたはもうすでに偉業を成し遂げた。『MEMEの反逆』という誤解を解き、MEMEとヒトの融和を実現し、二つの種族を救ったじゃないですか。そして大切な親友を救った」
――KALM医療棟。
「簡単な言葉すら使えないなんて。……インテリキャラじゃないの?」
「そいつの妹だと聞いてたんだけどな。いいか? 前にも言ったけど、複雑な問題を簡単に表現することは難し――」
「要はラフスケッチ? なんでしょ?」遮るジーナ。
「……そうとも言えるけど」
「たくさん引いた線の上に、一つ確定した線を引いて、他を消せばいいんじゃないの」
二度目の兄妹喧嘩は未遂に終わった。
こういうとき、ジーナは一見興味が無いようでいて、最低限話を続けられる程度の要点は掴んでいるのだった。こうやって方向を示して、追うべき球を投げてやればいい。それでサロの思考は適切な自動操縦に戻る。そうジーナは心得ている。
「そう。そうそう。……そう! 『遅延選択量子消しゴム』だよね、やっぱり」
「いや、知らないけど」
「『情報を得た痕跡を消す』、『確率を調整する』、『確定する』……この流れだ。最後に箱の外から中を覗く必要がある。QLLMの設計を修正しなきゃ。……でも慎重にやらないと、最悪の可能性で収縮しちゃ困る。最良の一本線を選ぶには、相当な調整……『書き直し』が必要……」
思考の濁流を周囲に撒き散らすサロ。ジーナはこれを止める方法については知らない。
――防御壁内。
「『救った』……? 何を言って――違う。全部……全部できなかった!!」
「できたんです。できた。――白浜さん、『作者はあなたじゃない』って、そういうこと」
編集の構え。そばでよく見ていた仕草。
「待って。やめてよ。そんな都合のいい記憶なんていらない! 忘れたくない。どんなに辛くたっていい。『私は何もできなかった』でしょう? ――やっぱり……そうやって今までも、私の記憶を変えてきたの」
「いいえ、これが初めてです」
「……」
「私の仕事は、編集者。あなたたち――私たち人類の記憶の編集者です」
「……はぁ……? ヒトの記憶は……編集できない」息切れしたように弱々しく尋ねるルナ。
「ええ、ココではまだ」
「ココ?」
「『今はまだ』と言ったほうが分かりやすいでしょうね。私はこの時間のことを『ココ』と言うんです」
「……今はまだってことは? ……どういうこと?」
「未来で、完成しているとしたら? ヒトの記憶を編集する技術が」
血の気が引く。
「あなたはココが、時間の先端だと思っている」
今までの記憶編集の様子を思い出す。依頼者の記憶の中で、依頼者自身はいつだって、このことを理解していなかった! ――私が今そうであるように。
「ココは――2143年は『今』じゃない。『今』は未来にある。……私はソコから来た。この歴史の先端時刻から」
「……どうして……今まで……黙って――」
「……一度、あるいは何度も、自分の記憶を消したからです。私は編集者の使命を果たすことを、投げ出した。そしてこうやって、自ら『そうと決める』ことで、思い出した。作者は私」
「そんなの嘘に……決まってる……」
「ええ、そうかもしれない。ホントかもしれない」
「作り話」
「でも『信じる』んでしょう? ……大丈夫、信じても大丈夫」
ルナは自分の中に張り巡らされた言語体型の脈動を、大量に提示されるその計算結果を、一つ残らず拒否した。自分の能力も、疑い深さも、信念も、後悔も、仕立へ伝えたい幾百も、誰が何と言おうと幻想ではないこの喉の痛みも、何もかもを噛み潰したように。――そして、声が聞こえた。
「『改訂』。――あなたたちの物語を、私たちの因果を進もう」
――私たちの……私の物語。
「……うん」
「次は良い旅を」
「あなたも一緒?」
「みんな一緒に」
21. 量子消しゴム計画
――KALM医療棟。
ジーナの様子を察して、解説を挟むサロ。
「超ざっくり言うと……『量子消しゴム』は、『見た結果を見なかったことにすると、はじめから見られていなかったように振る舞う』こと。『遅延選択』は……『見たか見なかったかを後から決める』こと」
「えーっと。たとえが思い浮かばない……それで何が起こるの」
「『未来が過去を変えうる』」
「タイムマシン?」
「まあ、その亜種みたいな感じかな。一方通行だし、ヒトは運べないけど……。『歴史書き直しマシン』だよ」
「……ダサいからその名前あとでちゃんと考えたほうがいいよ」
「……! よく分かってるじゃん。――後で考えよう。『遅延選択だけに』」
「ダジャレ言ったわけじゃ……まあでもよく分かった。――あれ?」
「なに?」
「でも、『見なかったことにする』なんて無理じゃない? 一度見てるんでしょ? 私も今そのダサい命名聞いちゃったし」
「……無理……かも」
「え」
「でも……それをやらなきゃならない。――OSIに、街に、世界に、『人類は2145年を無事やり過ごした』って、そう思い込ませなきゃ」
「……どうやって?」
「一旦、人類みんなが忘れてくれれば……あるいは」
「そんなの――あ」
「あ」
22. 時間の外
――記憶樹2143年。
周囲の映像が線上に伸び、光量を増す。やがて白飛びする。
仕立は自身の記憶を、未来方向に遡る。自分の感覚にとってみれば、『いつしか消したらしい、過去』にあたるが――。
視野に映るシークバーが右端に到達する。――キーンと響く耳鳴り。最悪の目覚めだった。
LIVE:先端時刻に到達しました
2200-10-11 Sat. 13:25:24.125
――2200年。……なるほど、ここが先端時刻。
私はここにいた……ここが私の時間。さっきまでのは――私の知る限りの人生全ての時間は、編集対象の記憶の中。
LIVEモードに移行します。OSI-4.0 GENEモデルに接続中。
「……GENE? ……嘘でしょ! ……ハハ!! こりゃ参った! あの東京のトンデモMEME……」
――『ジェン』といったかな。……あなた、正解だったみたいですよ。
視野が復活する。薄暗い。室内。デスク。――ここは?
あたりを見回す。ドアの横ある表記が目に入る。『Editorial Dept.』……編集部。――英語?
インベントリを開く。手近にあった文書をタップし、硝子板に表示させる。
『Quantum Eraser Project』
――Detroit AL Management Bureau
Subject Department:
- Editorial Dept.
- R&D Dept.
…
「『量子消しゴム計画』……デトロイトAL管理局……アメリカ?」
スッ、と自動ドアの開く音。
「Jack! Are you okay?」
焦った様子で部屋に入ってくる……MEME?
「……どなた? ――あ、できれば日本語で」
「……編集法規則のため再度名乗らせていただきます。編集アシスタント兼カウンセラーMEMEのマーフです」
「あああ……! マーフさん! ……何年ぶりです?」
「25分ぶりです。前回の編集開始から25分経ちました。20分の段階で中断信号をお送りしたのですが返答がなく……もうだめかと。……よく戻ってきてくれました。――ですが、その様子だと……お忘れになっているようで」
「……ああ、はい。……あの、25分って。――それって主観時間だとどれくらい?」
「推定500年――20年が1分です」
「あーあ。こりゃ……ほとんど忘れてますね」
苦笑いする仕立。――私は30歳くらいのセルフイメージだったのに。自分が知るこの人生は、おおよそ最後の一分半のことらしい。
23. 科学は自己を克服する
――記憶樹2143年。KALM医療棟。
「「因果欠損!」」声を揃える東雲兄妹。
興奮冷めやらぬ様子で続けるサロ。
「全世界を騙す……因果欠損級の欺瞞が必要なんだ! あれの原理は分からないけど……いや、そのために因果欠損が起きたとしたら?」
「……誰かが起こした? 因果欠損は……何が起きたか分からないんじゃなくて、分からないようにした、ってこと?」
「うん。百年前にも、似たような考えに至った人がいたってことかな……どうやって起こしたんだろ。あんな荒廃……ん? そっか。因果欠損は一つの出来事じゃない。二つの出来事を総称してる。『原因不明、未曾有の地球大荒廃』『人類みんな記憶喪失』。後者が人為的に起こされた……」
もはや、全ては推測でしか無い。『核戦争――核兵器の使用、報復が複数あった。放射能汚染の被害が当時拡大し、DNAへの影響が今も残る』『大地震――原因不明、同時多発の地震による被害、連鎖的な災害が発生した』『隕石衝突――壊滅的被害』……そして、『超巨大量子系による超常現象』。
「――いいやこの際、理由は何でもいいんだ。『みんなまだ知らない』から。因果の余地があるってことが重要だ。選択を遅らせることができる――やっぱり、『未知は力』だ」
患者用のメガネでOSIに接続し、硝子板をいじるジーナ。
「『記憶 消す方法』、検索っと」
「出るわけないだろ。そんな技術」
「……カウンセリングの記事だけ」
「ほら」
「じゃあ作るしかないね」
「そうだね。――これまで人類が可能にしてきたのは……それまで不可能だったものだけだ」
打って変わってやや抽象的な話が始まった。
「……僕が初めに見たのは、DiVAR手術後の天井じゃない」
「え、そうだったの?」
「……無色の未知と、不可能性の霧だった……比喩じゃなくてね」
ジーナにはもう、サロがおおよそ何を言いたいのか分かった。
「その中を歩こうなんて、到底思えなかった。……誰かが手を引いてくれなければ。――『色』が見えた気がしたんだ。ジーナの言う『黒』が、『白』が、見えた気がした。それで分かったんだ。周りに広がる未知も不可能性も、『可能性』だったんだって……。だから、知りたいと思った」
「……そっか」
「だからここまで歩いてこれた。だから、この眼で見つけられた。だから、この眼で今、君が見える」
寸分違わず、ジーナの瞳を突き刺す視線。たしかに、どうやらこちらが見えているらしい。
かつてジーナの心を壊した彼の好奇心は、ジーナ自身が育んだものだった。そんな事実を再三にわたり突きつけられたら、自分を含めた全てへの恨みを更に強めてしまう。――自分が嫌うサロを、サロが嫌う自分を、私が未だに知らなかったとしたらの話だが。
「解体器……あいつの使ってた、あの技術。使えるんじゃないの?」
「……天才」
「そうだよ。知らなかったの」
「今知った。――でも、破壊だけじゃなく、編集できるようにしなきゃな。そもそも、あのトンデモ技術の原理を調べるところからなんだけど」
真剣な眼差し。それを眺めるジーナ。弱音を吐いてすがりついてきた数分前のサロは、もういない。――私が守るべき相手はいない。
「――あれ? ジーナ、解体器のこと知ってるの? ……いつ言ったっけ?」
「……歩こうとしたのは、眼を開けようとしたのは、私じゃないよ」
「ジーナ?」
「そこに可能性があっても、手、伸ばさなきゃ意味ないよ。……兄には、それができた」
「……もちろん」
そう言ってあげることは、今までだってできた。
そう言って彼の歩みを自分から切り離すことは、いつでもできたはずだ。彼は彼の足で歩いたのだから。
ジーナは少々いたたまれなくなる。自分もサロと同じだった。家族が最も近い『他人』であることを――知ってはいても――実感がなかった。
「だけど、あのトンデモ出力の解体器……歴史をまるごと消すほどの規模で使えるのかな……」
もしそれができれば、破壊的な遅延選択を起こせるかも知れない。
――そもそもなぜ僕らは因果欠損の事実を知っている? 穴を開けた後……つまり、ココはもうこの計画の最中なのか? ……可能性は相互に干渉する。干渉元の未来が、現在が、過去が、うまくいき始めてるのかもしれない。そうか、この計画を考えるにあたって、時間の方向にとらわれる必要はない。
解体器の開発者はそこまで考えていたのか? ――いや、もしかして。
「ハ……ハハ……」
「え、何。こわ」
「……解体器はきっと、これから作るんだ。それはもしかしたら、僕が」
『量子消しゴム計画』。
時間の先端で己の過去を書き換え、筋の通る因果を、一本のシークエンスを設計する。
この計画は、いつか人類が――僕が、完成させるんだ。
「……これは、長い戦いになる。文字通り、『人類の歴史を変える』技術だ」
――科学史は己の因果を克服し、あの災害を乗り切る。僕がそうする。
――2200年某日。デトロイトAL管理局、編集室。
マーフに一通りの事情を聞いた仕立。
「戻られるんですか。テイラーさん」
「だって、僕がやるしか無いんでしょう? 『全人類、全MEMEの記憶編集』」
「……はい。他の編集者はもう……戻ってきません」
「そりゃ、こんなに辛い仕事、離脱したくもなりますよ。実際自分も、少なくとも一度はそうしたみたいですし……」
「……写真、持っていきますか?」
「写真?」
「はい。自分を見失わないようにするおまじないみたいなものです。以前断られましたが――」
二次元写真を渡すマーフ。心して見る仕立。それは、合わせて三十人くらいの集合写真だった。
『デトロイトOSI-4.0 稼働記念 2160年』
――白浜さん! え、ちゃんと歳取ってるし……。
――見知った顔つきの女性。……語依か! 良かった。元気に笑っている。
――その横。主人公さん……語依を任せてよかった。報酬は弾まなければ。
――うげっ。なんでKALM局長が……? 生きてたのか……。
――あれ、この人は……ジェン? ****東京ALで追いかけてきたあのMEMEか? あと、なんだか見覚えのある男性。
――翠さん、河合さん、ドルミル、アリクイまで一緒。他にも見知ったMEMEが並ぶ。
「……」
一人のシルエットを探して、凝視を続ける。ルナの前、車椅子に座る女性が目にとまる。
――鳥越さん。
「マーフさん、この写真……」
「DOSSの干渉結果の都合上、信憑性は低いですが、おおよそ現状の『過去状態』を表しています」
「じゃあ……無事というより――」
「編集の結果、『無事だった可能性が高い』と、仮因果は評価している」
「……そうですか。――なんだか、変ですよね。ホッとしちゃうなんて。最後には消してしまうっていうのに」
「それが、私たちの大命。フィリアルデューティですから」
「……ええ。――そろそろ行きますかね」
さあ、仕事を終わらせよう! 仕立て屋も店じまい。最後の仕上げだ。
OSI-4.0 ERASER
Direct-View AR:記憶樹との接続を確認――完了
High-Pressure AR:仮説/帰納推行の出力を確認――完了
バルク重力窓 ――起動準備
目標座標: depth 10.0, time -56 [years] (x, y, z, w:規定)[警告] High-Pressure ARは周辺複素時間への可能性干渉を伴います。
仮因果の循環参照および自己無撞着計算による一般観測系G-OSの微分不能性・DOSS侵食がOSI-4.0の組成に影響する恐れがあります。自動補正は限界深度以深において機能しません。DiVAR(バルク重力窓) ――起動
Inter-Brane AR ――起動
目標深度 depth 10.0 付近の可能性波に干渉します
よい旅をお祈り申し上げます。――OSI-4.0
――記憶樹2143年。防御壁内。
目覚めるルナ。毛布に寝転がるハンナの身体。
一瞬とは言わず、彼女が息を吹き返すことを期待した。
「……ハンナ」
――仕立さんは? いない。
記憶に違和感はない……編集されていない? ……逃げたの?
チャットの通知が鳴る。硝子板が生成される。……ハンナにかけられた毛布の上に落下する。
ようこそ、時間の外へ
行ってください。あなたの行けるところまで。
硝子板はかすかに揺れている気がした。
24. 狼煙
――記憶樹2143年。KALM医療棟。
サロはこの度のアイデアを一通り吐き出し、ジーナの硝子板に自動書記でメモを取った。
――そうだ、合言葉を決めよう。いつか技術が完成して、現実の再版が叶うタイミングで、その狼煙を見つけられるように。なるべく単純なものを……例えば――。
「『作者は君じゃない』」
自分のモノローグを朗読される。男の声。
「MEME……知り合い?」ジーナが尋ねる。
「……これから知る」
「え?」ジーナには理解が追いつかなかった。
サロはそのMEMEの後ろ姿を知っていた。――東京でジェンに解体器を向けた、GENEまがい。人狼。
「『いつ』から来た?」
「全てが終わった未来、あるいは時間の外から。……なんてね! 嘘です。――2200年から」
「そうか……!」
――2200年まで人類は生きた……! 人類の遺伝子は2145年を越えてくれた!
「――じゃ、じゃあ、人間である僕の記憶に入れたってことだよな……? 人間の記憶を、OSIが記述できるようになった?」
「わ。御名答。記憶編集中に私と対等に話せる編集対象者は、初めてですよ」
「そりゃあ、おそらく僕が開発者だからね」
ジャック・テイラーは、自身の数奇な人生の原因となった男の顔をしばし眺めていた。
「そして、『DOSS《ドス》仮説』の提唱者」
「ドス?」
「『量子デコヒーレンス過抑制空間』。私たちは『DOSS』と呼んでいます。今しがたあなたが思いついた、『超常現象』の原因……そして、『仮説推行』の基本原理についての、仮説のことです」
「……その命名はいつ」
「さあ? あなたが言いだしたんです」
「……今聞いたからじゃないのか? 因果がループしてる……大丈夫なのか?」
「これは……ブートストラップパラドクスですね。因果の自己無撞着計算がそうさせたのかも」
「じこむ……何だって?」
「因果ってのは、皆が思っているよりユルユルなんですよ」
「はあ」
実際サロはテイラーの話を理解できていたが、一旦会話のギアを落とすことにした。隣にいる一人の退屈そうな雰囲気を察して。
「どこまで進んだ?」
「編集はほとんど完了しています。ひとまず、この大災害の前に戻すことはできそうですよ。それ以降の仮因果の痕跡――記憶を全て消すことで」
「……人類全員の?」
「ええ。人類とMEME全員の。……OSIは、バージョン4.0を以て、全人類の記憶をも相互接続した。一本の『記憶樹』を形成することで、関連する全ての記憶を同時に編集できるようになりました。……だからこうやって、私はお二人の前に共通して存在しているわけですね。
……で、自動編集でうまくいかなかった残りは、私たち編集者の手作業です。解体器と、編集権限を持たされ、世界中を駆けずり回らされて……骨の折れる作業でしたよ。私以外の編集者は途中で仕事を投げ出したみたいですが――何はともあれ、ここまで来ましたよ。残りの編集対象者は、あなたと妹さんだけです」
「……マジでやったのか」
「41回」
「それは?」
「不要なデコヒーレンスを起こさぬよう、最初からやり直した回数です」
「……てっきり、もう嫌になって放り出そうとした回数かと」
「同じ意味です」
「2045年。因果欠損のおかげで、それ以降の不確定性を担保できています」
「因果欠損、あれはいったい何だった?」
「災害については、『一切分からない』。隕石衝突かもしれないし、核戦争なのかもしれない」
「今回と同じように、DOSSによる災害の可能性は?」
「まあ、ありえなくはないですが……OSI-1.0の稼働は2100年です。……QLLMに使われる量子コンピュータの部品は、2040年頃には作られていたみたいですから、その時点からDOSS侵食が拡大した可能性もありますが……。――ま、いずれにせよ、記憶樹の2045年についての記録は削除済みです。つまり、みんなが2045年を忘れたタイミングは、2045年じゃない。――2200年」
「……だから、誰も覚えてないってことか? ……ハハ、なんて変な話。『未来で忘れたから、覚えていない』だなんて」
「ココは2200年に保存されている、人類の記憶の中ですから」
「なるほどね。――じゃあ、なんで2045年の記録を消したんだ? 未曾有の大災害の記録は残しておいて、消すのはもっと平穏な一年でいいんじゃ……」
「ええ、2045年が選ばれたのは、消しやすかったからです。政治的、民意的に」
「要は?」
「『みんな忘れたいほど、酷い一年だったから』」
「……背筋が凍るね」
「どこまで戻せばいい?」人狼に尋ねるサロ。
「どこまで犠牲にするか、次第です。一度全OSIのデコヒーレンス過抑制が解消されたら、おそらく次はありません。その因果をもう一度起こすのは……考えたくもないほど難しい。――42万年分の残業代払ってもらえます?」
「42万年――」
「冗談ですよ。せいぜい数千年分」
一呼吸置いて、人狼が告げる。
「そして……あなたはあそこで、人類を選ぶべきだった」
数秒の間。
「……漆さん――アイツがOSIを乗っ取ったら、やっぱりその後はうまく行かないのか?」
「残された人類、いなくなったMEME。時折様子を見に現れるMEMEに、拡張層への移民を断られ続け、世界人口は数えるほどまでに減少、冬眠技術も未熟で、もうすぐ人類種は寿命を迎える。――ってな感じです」
――「人類を選べ」……じゃあ、ジーナはどう助ければいい?
「……それに、このあと日本の孤立に続いて各国の国交は断絶状態に向かいます。その先、地球上では十数回の戦争が待ってます」
「戦争……」
「ヒトとMEME、ヒトとヒト。種族間の殺し合いになる前に、喧嘩の時点で仲直りしておくべきです」
「だってさ!」ジーナがすかさず皮肉を挟む。サロの腹の奥のほうが痛む。
「……そうだね。――なあ、どうにかしてジーナを救えないか? 大災害前……いや、そもそも、ジーナが意識障害にならないようにする……とか」
「え……そこまで遡らせる気ですか……もう編集者は私しかいないのに? それ以降の歴史が消えてよければ、不可能ではないですが……」
「消さないで」
サロより先に拒否したのはジーナだった。
「そのままでいい。喧嘩して殺されかけたところまで。――ねえ、もしかして、アレを無かったことにしようとした……? ねえ」
サロがジーナの言葉にこれほどまで恐怖を抱いたことはなかった。
「あ、え、あの――」
「まあ、その辺も任せてください。最良の史実になるよう、最大限の手引きをしますから」
「……そう……か。頼むよ……」
右半身に突き刺さるジーナの視線が痛覚を刺激する。この共感覚も、HiPARの症状だろうか。
「では、そろそろ」
「あ、待ってくれ。この記憶も、なくなるのか」
「もちろん。先端時刻を戻すなら、それ以降の記憶を消す必要がありますから」
「……大切な記憶なんだ。どうにか、覚えていられないか。この数分だけでもいい」
「それができれば、苦労しませんよ。『時間』とは『未知から知へ向かう流れ』。エントロピー増大……時間経過の逆をやるには? 消すしかない。それが『量子消しゴム計画』」
「……そうか。でも、君は君のその使命を覚えていられるんだよな。どうやってここまで戻ってきた?」
「それは私が、あなたの時間の外にいるからです。『今ココの時間』に手を加えつつ、私は私の時間の先端、およそ50年後にいます。だから覚えていられる。……編集者ですから」
「なら……そうだ。代わりに君が覚えておいてほしい。僕らのこの記憶を、全部」
「……ただの伝聞として、過去のあなたに再度伝える分には、問題ないでしょうね……あるいは、『七番』に頼んで夢にでも刷り込んでおきましょう。元来それが私の編集者としての仕事です。そうやって、依頼主に自身の行動を変えてもらわなきゃならない。編集とは、そういうことですから」
「うん。それでいい。ありがとう」
「あと、これはいいニュースか、悪いニュースか分かりませんが……おそらく、あなたたちの主観はこれからも何の変化もなく続くでしょう」
「……それはどういう?」
「難しい理屈なんですが……主観の複製問題ってやつです。『記憶を消されたあなたたち』の物語を、『あなたたち』が見ることは叶わない。あなたたちはこれから、『記憶を消されたあなたたち』を作るために、この泥臭い未来を進まなければならない。――連盟を内側から改革するんです」
「僕らは僕らの使命を果たせと」
「でないと、私がここに来られなくなる。……私はここにたどり着くまでに、あなたたちの未来から、あなたたちの記憶をたどってきました。実際お二人は『今』――お二人にとっては未来ですが――、冬眠室のベッドで横たわって寝ているんですよ?」
サロはその言葉に、途方もない旅路の足跡を見る。この人狼は、自分の人生についても、ジーナの人生についても、これから先のことを全て知っているのだ。
「……あんまりネタバレはしたくないですが――決定論的にも、ここで私はネタバレをしていないはずですが――あなたたちの主観はこれからも続いていく。それらは、正史として残らない。残しておけない」
少し間があった。
「嘆かずに、あなたたちの可能性を生きてほしい」
人狼は、何度もこのセリフを言ってきたのだろう。
「私はより良い可能性を、本流を見つける」
「……頼んだ。その本流への嫉妬に苦しむくらい良い生き方を、してみせるよ」
「ええ。――タイムスタンプ設定」自身の左耳に触れる人狼。
サロは肝心なことを聞き忘れていたことに気づく。
「あ、ちょっと待って! 名前は?」
「……知ってるでしょう?」
「え? いや、知らな――」
凝視したところで、見覚えのない顔つき。サロは自身の、まだない記憶を探る。
そうか……まだないのではない。今、作る記憶だ。
「ジ、ジェ、ジャ……」
「雀」
「……ジーナ?」
「いい名前でしょ。雀」
「なるほど! ……叔母さんが名付け親だったんですね」
「オバ……殺す」
「はは。残念、願い叶う来世で待ってます」人狼の右手が、ジーナの肩に触れる。
サロの右肩へ力無く倒れこむジーナ。眠っているように見える。
「叔母って――」
「……じゃ、次も良い旅を」
こんなときに何を話したらいいのか、サロは知らない。
産声も、腕の中で泣く姿すらも、まだ知らないのだから。
サロの左肩に伸びる腕は、親に似ずたくましかった。
――四条通り。
駅前の避難場所はマーフたちに任せ、SUVを走らせるルナ。
京都にいては、ヒトはいつ災害に巻き込まれるか、MEMEもいつ機能停止されるかわからない。みんなを率いて、河合さん先導で東京へ向かわせた。
――「みんな一緒に」
仕立の行方を知るものはいなかった。
何もかも覚えている。初めて会った日、彼はこうやって法螺を吹いて、私の前からいなくなったのだ。
――「除霊係のテイラーです」
いつか見つけ出して、文句を言ってやる。――このホラ吹き狼め!
「父! 東京行くよ!」
25. 非存在時間
これより先、私たちの歴史は記述されない
いつか、DOSSの外にいる存在が、中を覗くとき……この物語を起動するとき。
再生した地球を席巻する、次の人類や、次の生命体が、言い伝える伝承の中に、
荒れた地球に降り立った宇宙人が解析する、石板に刻まれた歴史の中に、
この世界の終わりにバルク生命体が書き記す、宇宙表面のメモ書きの中に、
そこに、私たちの歴史は記述されない。
――記憶樹2143年。KALM医療棟。
部屋に差し込む青白い光。夜が明け始めている。
右肩にあった重みが消える。ジーナが目を覚ましたようだ。
「おはよ」
「……おはよう、ジーナ」
ついさっき、人狼によって消されたはずの時間が流れる。『主観複製問題』――自身の主観が正史となった現実に移ることをサロは少々期待していたが、そううまくはいかないらしい。この主観は、この時間を過ごさなければならない。この歴史を消すための技術を――あの人狼が我々の前に現れるまでの歴史を、僕らは作らなければならない。
廊下に出て、窓を覗く。停車したSUVから、ルナが出てくる。
「父! こっち」
「最低限、筋トレしとけばよかったよ……」
「うざ。そんなに重くないでしょ。こちとら、ずっと飲まず食わずなんだから」
歩けないジーナを背負って、病室を出るサロ。疲労に塗れた頭で思考する。
――これから何をすべきだろうか。
バグった物理現象空間――DOSS。MEMEとともに消えた漆透。そして、ジェンの行方。問題は山積みだ。その中で、サロは基礎物理学の研究と、技術開発を進める必要がある。
未完成である『量子重力』の統一論はおろか、量子情報科学にすら詳しくない。これは素人がたった一代で成し遂げられるようなことじゃない。そもそも、こうしてDOSSの超常現象に翻弄されている中、果たして基礎物理学は進歩できるのだろうか。
今までに背負ったことのない責任だった。持ち前の好奇心が、かろうじてそれを相殺している。……あるいは相殺できず、それ故に背中がこんなにも重――。
ひとりでに割れる窓ガラス。一部が不自然な幾何学的模様で切り取られている。超常現象には――そもそも物理現象には――情けも容赦もないようだ。広がった破片を避けながら歩く。ジーナのしがみつく腕で首が絞まって苦しい。よく纏わりついてきたジェンだったが、いかに軽かったかがよく分かる。なんせ、あいつには質量がなかった。
「兄! 前! 地割れ!」
「うわ! ……びっくり」
眼前の床が崩れかけている。まずはこのイカれた街を死なずに出るべきだろう。サロは早速不安になる。先が思いやられる。
――ホントにできたのだろうか、僕に。
「できる、よ」
「……ジーナ?」
「今度は……私に黙ってヒーローになろうとしなかった」
「……うん。ごめん、置いていって」
「それは許さない」
「はい……」
「……でも、これからヒーローになることは許します。ただし、人類に私を含めること。あとは――」
立ち止まるサロ。
探していたパズルのピースを見つけたように、新しい自然法則を発見したかのように、それを告げる。
「ジーナ。……量子重力理論、一緒に研究してほしい」
この感情をずっと覚えていよう、とジーナは思った。
私はこれまで何を待っていたのだろう。何を求めていたのだろう。
思い起こす受難が、片っ端からどうでもよくなってしまう。今聞いた言葉以外は、もうどうでもいい。
――こうして、私はまた、自分を手放そうとする。
「やだ」
「……そっか」
「まあ、面白そうだったら……私もやるかな」
「うん」
服従をやめる孤独感の、どれほど苦痛なことか。
「……それか、校正で全部コピーして」
「それはむり」
ガタガタになった医療棟前の道をいくらか歩いて、ルナたちの車に乗り込んだ。車窓の向こうを崩壊した街が流れていく。ジーナはいつかのHiPARの幻覚症状を思い出していた。まだ、幻覚のほうが良かったかも知れない。この現実は確かに、私たちにとっての現実であるのに、いつしか――時間の外のいつしか――嘘になってしまう。酷い仕打ちだ。
「私を殺しに行く……っていうか、過去で、殺す……ことにしたんでしょ?」
「……物騒だな。過去っていうか、別の可能性における過去の僕が、ね」
「人殺し」
「……ホントにそうすると思う?」
「うん。さっきガチ切れしてたじゃん」
初めての兄妹喧嘩を思い出す。
「……ごめん。悪かったよ。ホントはあんなふうに思ってるなんてことは……あったかもしれないけど」
「あるじゃん」
「思わないことのほうが多いよ。大事だと……思ってることのほうが――」
ゾワッとした感触。聞かなければよかった。
「待ってやめて。もういい。気持ち悪い」
「なんだよ。せっかく――」
「わー。ありがたいこと。私も謝ったほうがいいのかなー」
いや、この応対はジェンのやり方だ。自己同一性の揺らぎを感じるジーナ。
「さあ……分かんないよ。僕ら今まで喧嘩したことないし」
「……じゃ、いっか」
「お前……」
きっと、謝らなくてもいい。
なぜなら彼は――彼の過去は、たった今も流れて去る未来を無かったことにし、この私を捨てるのだ。
「お気の毒。また背負うんだね。私の亡霊を」
「性なんだよ。……東雲家はそうじゃなきゃいけないらしい」
何気なく、手元にあったサロの耳に触れる。びっくりしたサロが身をかがめる。それがどうにも可笑しくて――イラッとしたときには、盲目のサロによくこうしていたことを思い出す。あの頃から、サロは小さな憤りを我慢していたのだろうか。……いや、もしそうであれば、この兄妹は既に何百回と喧嘩していたに違いない。
そんな日常が、いつかの日常が、更に現実的な色を帯びて続いていくのだろう。その末に、全て無かったことになる。ジーナはどうも己の気分を決めかねていた。こんな経験、「したことない」。
――何万の妄想が、そんな無念を覚えながら死んでいったのだろうか。
――何億の可能性が、そんな無念を抱えながら道を譲ったのだろうか。
この白昼夢を、明晰夢を、どうやって耐えられよう。この男は、どうしてこんなに平気そうな顔でいるのか。
こちらの視線に気づき、何やら怯えたような顔をするサロ。憂さ晴らしか、恨み晴らしに使われることを恐れている。「次はどんな奇行をしてくるのか」と言わんばかり。
――そうだ。何も変わらないのだった。私はこれからも、生きる意味とか、存在理由とか、無意味な意味にウジウジ悩みながら、生きていく。そしていつか終わる。
そもそも、誰がためにこの軌跡を残せというのか。私は、そんなもののために生き始めたのではない。……寂しいことに。
――「あなたが、お兄ちゃんを助けるのよ」
これは、私が勝手にやること。無意味であるところの私の記憶のために、愚直に残す軌跡。
そしてなんと幸運なことに、少なくともあの人狼――雀は、この物語を覚えていてくれる。私はそのことを知っている。それで十分、この軌跡は贅沢というものだ。
……さて、私は何をしようか。サロの持つ硝子板に、これから研究することになる分野の論文が表示されている。この子はもう、そっちに気が向いている。
「はあ。大人になったねー。お兄ちゃん」
「……やめな。なんかムズムズする」
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