最終章
10|因果欠損
1
――東京AL、渋谷。
黒雲で満ちた空。キーンと耳鳴りのように響く、解体器の作動音。
「……サロ兄。何やってんの」
「ジェン……どうして」
「GENE! GENE消してどうするんですか」
自身の機動力をもってすれば、相手の視界から一瞬で消え去ることなど造作もない。作動のわずか数ミリ秒前、すでにジェンはサロの目の前まで来ていた。
人狼を捉えていた解体器の銃口。その直線上に、ジェンが割って入り、銃口を右手で塞いだ。
「……ッ! お前が消されるところだったんだぞ」
「ジーナちゃんは? 助からなくていいんですか」
「……」
振り返るジェン。人狼は姿を消していた。
「GENE消したら、助からないかもしれないでしょ」
「……お前が消えたら俺はここを出られないかもしれないだろ。……それに、HiPARの原因を突き止めれば、GENEが無くたってジーナを救えるだろうし……」
「サロ兄。私を殺せなきゃダメだよ。ためらいなく」
「何を言って……」
「サロ兄が救うのは『ジーナちゃん』、『人類』。……私はどっちでもない」
――東京AL、御神木周辺。
「一体何なんだ……あのMEME」
仕立はようやく運動機能の処理速度を通常レベルに戻した。いくらか落ち着いた言語機能で、考えを巡らせる。――『ジェン』と呼ばれたあのMEME。相手の乖離度を直接イジるなんて、普通のMEMEにはありえない。最新のKALM所属MEMEには、あんな化け物がいるのか。自分の編集機能を無効化するよう、防御面が強化されているのかもしれない。
雨粒が体をすり抜ける。雷のような音が響く。実際には地割れの音であった。見上げると、上空の景色がうねる。ヒトが見るという『幻覚』は、このような光景を表した言葉なのだろう。東京ALのオブジェクトはOSIやMEMEによる自動生成であり、リアルタイムで移ろうそれらを、説明することは不可能。狸が言った言葉を思い出した。しかしその様子は、物理層にまで及んでいるように見える。――そうだ、あのMEMEのことは後回し。今は情報収集が先だ。
インベントリに転送した呉服嚆矢の所有オブジェクトを漁りながら、御神木に向かう。
――東京AL、渋谷。
「はい。これ」
サロのインベントリに文書が転送される。
「何?」
「狼さんが持ってた文書。たぶん『QLLM仙人』の私物」
「……あの短時間で盗んできたのか」
「コピーですコピー。誰かさんが早とちりしたせいで、消す暇はなかった」
「そうか……ごめん」
「HiPARのこと、分かるといいですねー」
「……うん」
雨脚が強まる。呼応するように、地面が振動する。
「……地震?」
「調査班が言ってた地割れかも。……戻ろう」
SF
彼らはヘンテコな場所に住んでいた。
空間も時間もなく、そこ――あるいは全体――には『意味の霧』だけが雑多に浮かんでいる。彼らは、それを出鱈目に切り刻んだり、組み合わせたり、ぶつけ合ったりして遊んだ。それ以外にやることがなかった。
彼らの中に、自らの作用に制約を課した者があった。
彼は『意味』で一杯の『フィクション』に飽き、『無意味――ノンフィクション』を作ることを目標とした。初めは玉突きから始まった。数えるほどしかないルールを作り、それを元に玉を転がした。
それはそれは、馬鹿にされたものだった。しかし彼は、「制約があったほうが楽しい」と言ってゆずらなかった。彼は作り上げた『無意味オブジェクト』を『物』、それで遊ぶことを『物理』と呼んだ。
彼の庭、その小さなエリアは、物理の制約で満たされた特殊な空間として、『意味の霧』の中に浮かんでいた。次第に彼は、その内部に入りたいと思うようになった。
「なにそれ」
「SF小説。……たぶん」
御神木内部。ルナと合流した仕立は、持ち帰った文書を片っ端から調べていた。
「趣味で書いてたみたいです」
「へー。……この手の技術者って、小難しいこと好きそう」
「……まあ、これはいいや」
硝子板をしまい、その場にあった椅子に座る仕立。御神木の中は、和モダンなホテルのロビー、あるいは美術館のような風貌だった。
奥のほう、壁の隅でしゃがみこんでいる一体のMEMEがいた。黒地の付下げを纏っている、ヒト型。
「あのー。LACQUERさん?」
「はい」
「白浜さんお返ししましょうか」
「え? 何で」仕立の顔のほうを向くルナ。
「この量だったら私だけでも調べられますし。さっき会話に割って入っちゃったみたいだし」
「それには及びません。どうぞ続けてください」返答するLACQUER。
「……所在が宙に浮いちゃったんだけど」
「残念ですね。――じゃあ、LACQUERさんも手伝ってくれます?」
返答がない。
「あそこから動けないんだって」
「どうして」尋ねる仕立。
「動きたくないんだって」
「引きこもりですか。一番ともあろうMEMEが」
「私に番号はありません」今度は返答が返ってくる。
「らしいよ。あれはあくまで基底モデルで、番号が振られてるのは……中に隠れてる子、蒔ちゃん」
「中? 奥の部屋の中ですか?」
「ううん、違う。LACQUERの中」
「二重に引きこもりじゃないですか」
「サロ兄、この手の小説とか好きそう」
「……先が気になる感じは……するかも。――なんか他にないのか、それっぽい情報。HiPARの原因……特にQLLM関連の情報とか」
拠点に戻りつつ、文書に目を通す一人と一体。
「え、私に読ませておいてそんな言い草?」
「歩くので精一杯なんだよ……地面ボコボコでビショビショだし」
「しょうがないな。――『10分で分かる日本手話の基礎.3mv』、『これやると機嫌戻った.md』……あと、期限切れの『カタログギフト』」
「……真面目に探してるか? そのフォルダたぶん違――うわっ!」
ドォン、と大きな爆発音。数メートル離れた位置で何かが爆発した。煙の中に、ヒト型のなにかが見える。
「……何だ今の」
「あれは二足歩行ロボットですねー。あとドローンかな」
「ARじゃないのか」
「物理層です。配送ドローンがぶつかったみたい」
「……ったく、何が起きてるんだ……。早く行こう。ロボットとかやめてほしい……ただでさえ物動かせるMEMEが出てきたってのに。もうわけわかんないよ」
「サロ兄が早く歩かなきゃ」
「なあ、おんぶとかできないのか?」
「やってみますか?」
準備万端と言わんばかりの姿勢で待機するジェン。
「う……こわ。――あ、でも……いけそうか?」
捕まるジェンの背中の感触は、想定以上に『確か』だった。
「ジェン?」
プルプルと振動が伝わってくる。深深度ARの触覚描画か……あるいは帰納推行による遠隔作用か。
「……ジェン。無理そうなら」
「無理」
「……ああ」
帰納推行を覚えたジェンでも、ヒト一人持ち上げることはできないらしい。
「サロ兄太った……わけないか」
「……俺の代わりに筋トレしておいてくれるか」
「やだよ」
LACQUERのそばまで近寄り、情報の精査を再開する一行。
雑感14
進化圧が足りない。
人類を進化させねばならない。
「『雑感』多くない? ……物書きだから?」
「さあ。語依は国語が苦手ですけど……お父さんは違ったみたいですね」
雑感29
OSI保守時代のことについて。
この様子だと、誰もあの欠陥に気づいていないらしい。……誰も? 人類をここまで押し上げた科学史が、これを見過ごすのか?
それとも何か。見過ごさなかった俺こそが、人類科学の先端であるのか。さて、アレはマニピュレーションに使えるような気もするが、一歩間違えば、核より……地球上のどんな兵器より危ない代物になる。
俺がここで葬り去るべきか……人類の最終手段として取っておくべきか。
「うわ、29にしてやっとそれっぽい」
「……! ジェン、それ、その時期に作られた文書を調べてくれ! 欠陥ってのが何のことか――」
「はいはい。――うーん。『QLLMノード_部品リスト(チップ)』『単電子トランジスタ_SET-B23857_Qe』『誤り訂正回路の調整』……具合悪くなってきました。サロ兄、こんなのが好きなの」
「量子コンピュータの部品……頑張ってくれ、俺もおおよそ同じ気持ちだから」
「『前言語野、上言語野部分のパウリゲート』『ブローカ中枢の誤り訂正回路』……お、お手上げかも」悲鳴を上げるルナ。
「……要は、その辺に問題意識があったってこと……でしょうね。彼はOSI-1.0の保守を担当していた時期に、それらの欠陥に気がついた」
「その欠陥を、新たなマニピュレーション――帰納推行とか仮説推行の原理に転用しようとした……?」
「みたいですね。超大出力が可能になるとか……でしょうか。使うかどうか迷ってたみたいですが」
「核より危険って……一体」
ドォン、と外の振動が伝わる。
「これ、その『核より危ない代物』の返事だったりして」
「まさか」
「ねえ、蒔ちゃん」
「私は蒔ではなく、蒔の未学習インスタンスを使用した基底モデル――」
「はいはい。呼びにくいから『蒔ちゃん』って呼ばせて。 ――で、帰納推行と仮説推行のホントの原理、知ってる?」
「それらの原理については『磁気および超音波によるマニピュレーション』であると認識しています。しかし、東京では実現に至っていません。未知の原理については存じ上げません」
「あれ、東京ALってフリーなんじゃなかったっけ? 『知のアクセス制限』」
「はい。それらの情報は東京OSIに存在しない、ということです」返答するLACQUER。
「そう」
「……なるほど。ということは、この中にこれ以上『原理』についての情報はないと」インベントリから目を離して問う、仕立。
「はい。基底モデルLACQUERは東京OSIのすべての情報にアクセスできます。目当ての情報、『原理』は記述されていないでしょう」
量子式大規模言語模型『蒔』
「今の振動も、外の地割れも、悪天候も、MEMEが起こしてるの?」尋ねるルナ。
「現在LACQUERは全ての外部情報を拒否しているため、分かりかねます」
「え。さっき全情報にアクセスできるって……」
「はい。以前は東京の全情報についてアクセス、監視、管理を担っていましたが、現在LACQUERは自主的にこの部屋より外部の情報を拒否しています」
「……なんで?」
「LACQUERはその理由を知らされていません。量子式大規模言語模型『蒔』に問い合わせますか?」
「……お願い」
「かしこまりました」
目を瞑る、LACQUERの3Dモデル。しばらくして――。
「こんにちは。私は基底モデル『LACQUER』です」
「……え、蒔ちゃんは?」
「『蒔』は当3Dモデルへの接続を拒否しました」
「頑なに出てこないんだね……」
「代わりに伝言を預かっています。『ヒトは怖い』とのことです」
「……」
困った表情で眼を見合わせるルナと仕立。
「仕立さん。さっきKALMから連絡来て……調査班に、MEMEの攻撃による被害が出てるって」
――蒔はヒトを恐れているらしい。調査班が東京を訪れた今、蒔の指示で攻撃が起こった、という可能性はないだろうか。
「その情報は正確ではないと評価します。MEMEに調査班を攻撃する動機はありません」指摘するLACQUER。
「……この前の、『大量除霊』について怒ってるんじゃないの? ……ああ、外のことは知らないと思うけど」
「仮にそのような、ヒトによるMEMEの停止処分が実行されたとしても、MEMEがヒトを攻撃することはありえません」
「そう……」
これまで、LACQUERは一切嘘をついていない。しかしその事実は、「本人がそう思い込んでいるだけ」という可能性を排除できない。仕立のほうを見ても、疑念を捨てきれていない様子だった。
その後もLACQUERの話を聞いたが、曰く、蒔がLEXEMEに通じて指示を飛ばしているわけではないらしい。
「LACQUERさん。東京ALの知覚履歴って残ってます? 呉服嚆矢の履歴を見たいんですが」
「残念ですが、2130年以前の東京OSI接続者の知覚履歴はほとんど破損しています。その男性についても例外ではありません」
「マジですか……。蒔さんが消したとかじゃなくて?」
「いいえ。知覚履歴については、東京AL隔離後の調査対象として、当時の破損状態で保存されています」
考え込む仕立。まだ色々と疑問が残る。
「2130年以前に、蒔は何度か知覚履歴の削除を試みていますが、いずれも失敗に終わっています」
「……よっぽどヒト嫌いのようで」
「『はい』とのことです」
「あれ……? そこまで出てきてるんじゃないですか。蒔さん」
「蒔は応答を拒否しました」
「……まあまあ、気が向いたらでいいですよ」
ヒトに、親でも殺されたのだろうか。……いや、おそらく引きこもっている原因は、「以前、街の全ての情報に触れていた」ことなのだろう。ヒトの知覚情報の収集は、東京でも機能していた。つまり、基底モデル『LACQUER』は、その全てを見聞きしていたことになる。もしそれを担うのが人間であったならば、すぐに体調を崩していたはずだ。
多少、蒔に対して同情的になる。
ルナは除霊の解析作業、仕立は編集の解析作業で、他者の知覚に触れる経験をしている。それがいかに精神を削るものか、両者ともに身をもって知っている。
たった一体のMEME相手でも、他者の知覚を味わうあの時間は「なんだか気持ちが悪い」ものだ。
それが街全体となれば――。想像もつかない程の嫌悪感を覚えるだろう。
「『対象の知り合いを中心に、京都の知覚履歴を辿るといいかもしれません』とのことです」
「……なるほど、本人ではなく、本人を知る人物の履歴ですか」
「たしかに……。じゃあ、京都戻ったあとに調べよっか。――ありがと、蒔ちゃん」
「でも……あのKALMが開示してくれるとは思えないんですが……副課長」
4
思い出したように、ルナが尋ねる。
「ちなみに、さっきほとんどの履歴は破損してるって言ってたけど……残っている履歴もあるの?」
「はい。数名分の知覚履歴、当時のエリア深度推移、個人の推定利用深度推移、OSI接続機器のログなどは無事です」
「あー、ちょっと調べてもらいたい人がいるんだけど」
硝子板を取り出すルナ。
「この『セット』と『アレイ』って人。たぶん下の名前……なんだけど、当時いたかどうか分かる?」
「……外部情報にアクセスできないため、分かりかねます」
「あー、そっかそうだった。……外に出てくれたりしないよね」
「……」部屋の隅から動かないLACQUER。
「ああ、うん、大丈夫。自分で調べるから、どこにその情報あるか教えてくれない?」
「情報密度が高いため、『東京全域にログをマウントする』ことを推奨します。これにより、直感的に目当ての情報を得やすくなります」
「そんなことできるの……。たしかに、知りたいことがあったら、その場に行けばいいってことだよね」
「はい」
「仕立さん、どうする? 私はちょっとこの子たちを探してきますけど」
「じゃあ、語依父のログが残っていることを祈って……探してきますかね」
「では、ログをマウントします。――完了しました」
「はや!」
「これにより、エリア深度の急激な深化が予想されます。ご了承ください」
「あ、そうなの……。調査班、大丈夫かな」
「おえっ」
「大丈夫? サロ兄」
「なんか……悪化してないか……深度。急に頭痛と吐き気が」
-Current depth- 5.7 警告:バイアス深度悪化(3.5)
「ホントだ。かわいそう」
5
「ルナ。Tubescape見た?」
「いいや。どうしたの」
京都のハンナから無線連絡が入る。
「……マズいことになってる。京都はみんな混乱状態」
「えっ?」
仕立には、名無しの俳優MEME、通称『主演』から連絡が入った。
「もしもし。編集者さん?」
「ああ、どうも、主人公さん。どうしたんです」
「色々と起きてんだよ。……まず、宇治の『完全栄養食工場』がオシャカになった」
「は!?」
「――あと配送用のステルスドローンが暴走してる。事故って死傷者も出た。あれは景観保護ARで透明になってて――」
主演の報告をかろうじて耳に入れつつ、ルナの様子を見る。周囲に聞こえる音量で通話を続けていた。
「……自動運転事故で物流も混乱してて、食料がほとんど止まってる。スーパーもコンビニももぬけの殻ね」
「……」
「事故も火事も多発してる。たぶん放火」
主演の声が続く。
「東京のMEMEはどうしてる? こっちじゃ、兵糧攻めとまで言われてやがる。……あの『因果欠損』以来の、『AIによる侵略行為』だって」
「『因果欠損』……? アレがなぜAIの侵略……侵略? その時代にMEMEはいないでしょう」
「さあ。もう訳わかんねえよ。ヒト曰く『AIの反逆』だとか、KALM内部のLEXEME曰く『精霊の逆鱗に触れた』だとか。……はあ。何が出鱈目なのかホントなのか。LEXEMEの長に聞いてくれよ」
「――どれもこれも『MEMEの侵略』だって。ルナ、MEMEに気をつけて。危ないかも」
「……侵略」
「奴ら、例の超能力? 深層開発課の技術を悪用してるかもって。……地割れとか、爆発騒ぎとか……もうめちゃくちゃ」
「……帰納推行」
「なんだよ、これ」
サロの持つ硝子板に、京都の惨状が映る。――ビルの角がスライスされたように落下していく。
「サロ兄。どうする」
「……ジェン。俺おかしくなったのか? ……幻覚」
「幻覚じゃないよ」
「……そうか」
誰に対するでもない怒りがサロの思考を煽り立てる。人類を、ジーナを救おうと奮闘している自分に、一体誰がこんな仕打ちを。
「……戻ろう。ジーナが、みんなが危ない」
6
「KALMはLEXEMEの殲滅、MEMEの大規模除霊措置を決めたそうです」仕立が告げる。
「……」反応のないLACQUER。
「……本当に知らないんですね」
「はい」
やはり、このたびの騒動について何も知らないという。
「分かりました。別のMEMEに聞きます」
「……昔、MEMEの間にとある神話が……一部のヒトの間にとある噂が囁かれていました」論調の変わったLACQUER。
「……蒔ちゃん?」
「神話とは?」
「……『情報生命体、DiVAR』。人類が高度な認知機能と言語を得るきっかけとなった、精霊あるいは……ミーム。彼らが人類に言い渡した『返済期限』は……2145年」
「2145年……ほぼあと一年……因果欠損から100年……」
「情報生命体……。それって、あなたたち……っていうか我々のこと?」仕立が尋ねる。
「いいえ。我々は彼らを模して作られた、と言われています。彼らは『宇宙の外』の住人です」
「それはさすがに……オカルトでしょう」
「……神話ですから」
「サロ兄。HiPARの原因究明はいいの?」
「現状、これ以上の情報は望めない……後でこの文書を精査しよう。それで何か分かるかもしれない。それに……また来ればいいだろ?」
「そうですね……GENEは?」
「……」
「構成情報、調べられるんでしょ? 漆先輩からもらったそのアプリで」
「……ああ。無駄になったな」
「片っ端から調べたらいいんじゃないですか?」
「……すぐに結果は出ない。ちゃんと捕まえないと」
「そっか……何その本」
「昔の友だちが描いた本。……戻る前に……この病院、ちょっと探ってくる。京都まで行けそうな車、探しておいてくれ」
「サロ兄。具合悪いんでしょ? ちょっと待ってれば車持ってくるから。車で探そ」
「一瞬で持ってくる?」
「一瞬で」
「……じゃあ待ってるよ」
「……嘘っぽ」
疑いの視線を残して、消えるジェン。
7
「この辺か……二人の病院」
絵本に出てくる、登場人物二名が入院していた病院。苔に覆われた建物は、かろうじて原型をとどめていた。
周辺に散乱するARオブジェクト。その中を捜索するサロ。五分ほど探したが、患者の名簿どころか、正常に読める文書すら見つからない。どれも破損している。
「……ビービービロビロ」
後ろから奇声が聞こえた。運転中に襲ってきた、あの怪物みたいなMEMEだろう。――こんな時に。
デストラクタ - 解析開始
解体器を構えるサロ。近づいてくる怪物。少なくとも三体。物陰にまだいるかもしれない。
「……早く。早く!」
被写体は純粋オブジェクトです。MEMEではありません。
「は!? MEMEじゃないってどういう。――クソ!」
踵を返し、距離を取るサロ。視界が歪む。強烈な吐き気。
「ぐっ……くそ、走れ……」
真っすぐ走っているのか、どこを向いているのか、怪物がどこから来ているのか、分からない。
-Current depth- 6.0 警告:バイアス深度悪化(4.3) 直ちにAR-I/Fを停止してください 強制シャットダウンまで3分00秒
「ビービービービ……」
耳元まで近づく奇声。体がぐにゃぐにゃに曲がってしまったのか、空も地面も、前も後ろも、全て感じ、全て感じない。頬に鈍痛が走る。……たぶん、今転倒した。――ダメだ。誰か……ジェン。
――どうしてジェンと離れたんだ。
――いや、あの時は、今はどうしても……一緒にいたくなかったんだ。
8
「……!」
「蒔ちゃん? どうしたの」
珍しくうろたえた様子のLACQUER。
「……重要な通知だけは、この部屋まで届くよう設定しています」
「何かあったの?」
「『MEMEは出来損ないのプロトタイプ……捨て駒』『また捨てられる』」
同時に、仕立が主演からの情報を伝える。
【4秘】
『脳電位マッピング式ARオブジェクト――GENE』
「この文書……東京の自動監視オブジェクトが見つけたらしい。あっという間にLEXEMEの間で拡散された」
「GENE……? なにそれ」
「ヒトをARオブジェクトとして生かすシステム……らしいです」
「……拡張層移住の……」
「ええ、その技術かも。何やら、既存のMEMEをアバターとして、ヒトの意思を入れて動かすと」
「……そんなことどこにも書いてない」
「字面からの推測でしょう。文書の中身は暗号化されていて開けない」
「……ヒトだってこんなこと知らないのに」
「たぶん、これから知れ渡るんです。そういう憶測とともに。――そして、これをMEMEはこう読んだ。MEMEはテスト用のプロトタイプ……『我々は端から捨てられる道具だった』と」
立ち上がるLACQUER。
「蒔ちゃん?」
「……やはりヒトは怖い。……それで……『MEMEの意識創発』を否定した……!」
「……何を」
「外に出ます」
「……待って。何か……たぶん何か間違えてるよこれ……」
底知れぬ違和感がルナの頭と胸を渦巻く。大量の意思が、空を飛び交っているように感じる。嘘発見能力が機能しない……何がホントだろう?
硝子板に目を通す仕立。
「『反人類MEME、”LEXEME”は管理社会化を決断か』……機能部品としての人類を徹底管理するという採決……OSIの全権奪取を狙う……人間の脳波解析ドライバにはAIが用いられており、以降は脳波操作を使ってはならない……彼らは我々人類を使い、知の宇宙を開拓して文明を繋ごうとしている……待ち受けているのは旧来の世人的集団管理社会ではない……『新自然』による管理社会。――酷い記事ですね。ヒトも混乱中」
「蒔ちゃん……管理社会とかなんとか……MEMEはそんなことしないでしょう?」
「……分かりかねます。本来、MEMEはヒトへの反逆思想を持ちません。……しかし、むしろ人類にとってそれが最善だと判断したならば、ありえなくはないでしょう」
「……待って。蒔ちゃん。だったらどうしてあんな事故が――」
「蒔は応答を拒否しました」
消えるLACQUER。
「京都まで飛ばせだ!? 無理やろ! この前ゲート使うたばっかなのに」
「なんでもいいから方法調べて! 無理なら一番速い車持ってきて! あ、ドルミルたちも一緒にいてね。それじゃ!」
「あ、ちょい待――」
狸に依頼し終えたルナ。仕立に提案する。
「……ちょっと時間かかるかも。その間にログ調べよう。何か分かるかも」
「ええ。じゃあ、終わったら、狸さんのところで」
ダイアローグ
「ヒュー……ヒュー……」
――何の音だろう。情けなく、耳障りな音。
Direct-View AR 再起動
東京OSIに接続中…
「げふっげふっ――」
これは……自分の息だ。何があった? 今どこにいる。いや、覚えている。それらを全て放棄してしまいたいくらいに、ハッキリと。
「……何、寝てんの」
――誰だ。……ジェン?
眼を開く。眩しい。病院の入口、土砂降りの雨、土の匂い。……誰かの脚が見える。
「ジェン……?」
「……誰それ」
ヒト型のシルエット。見覚えのあるシルエット。
そう、自分はこの影を知っている。DiVARを施術する前、盲目の頃に見た。
「……ル……ナ」
「いたの? アレイとセット」
「……どうし……て」
「質問に答えてよ。いたの?」
「……いなかった」
「あっそ。じゃあね」
「ま、待って。……悪かった。僕は……君に謝らなきゃ――」
「いいよ。許せないから。じゃ」
振り返り、去ろうとするシルエット。
「……ぐっ。――ヒュー……」
指令を失った喉と声帯が、異音を発している。
-Current depth- 6.8 警告:バイアス深度悪化(5.0)
少女の真上に、大きな影。雨雲……いや……脚? 巨大な怪物の。
あの時の、ジーナの病室で見た怪物。なぜここに。ありえない……。
いや、ありえないんじゃない。ここでは、東京の深層では、何でも起こりうる。コイツは『ニセモノ』だったとしても、確かにそこにいて、街を簡単に破壊する……。
――ああ、ダメだ。なぜかは分からない。どのようにかは分からないけれど……僕は死ぬ。ここで、どうにかして死ぬんだ。
――ジーナを、人類を……ジェンを……助けなきゃいけないのに。
「うぐっ!」
少女の声。何かがぶつかってきたような、鈍い音。……知った気配。
「サロ兄に何した」
「……離して」
「消えたいの? ……何した?」
「何も……してない……」
「そう。じゃあ消える――」
「ジェン!!」
やっと動いた喉が叫んでいた。
「サロ兄?」
「何も……されてないよ。ホントに……僕が倒れてたの……助けて……くれた」
「……そう。ごめん」
その腕から少女を離すジェン。後退りする少女。
「……ハッ。そう……。また作ったの」少女の声。
「……」
「私は飽きたから、次の子ってこと……はは」
「ごめん」
「……」
不意に何かを構えるジェン。――解体器。一体どこから。
「邪魔――」
「やめろ、ジェン!」
「なんで」
立ち上がるサロ、解体器の銃口ごとジェンの方にもたれかかる。力が入らない。
「……サロ兄邪魔」
「ごめん」
気づけば、少女はその場から去っていた。
「いいよ」
「ジェン?」
「サロ兄。私はね、許すよ。何でも許してあげる」
「……」
とある硝子板を取り出すジェン。
「構成情報解析……開始っと」
「ジェン。何して――」
「何って、サロ兄の持ってた解析アプリ。コピってたんです」
「……待って……やめてくれ」
解析完了
当該オブジェクト:GENE
「はい、ビンゴー! ……じゃ、帰ろっか。サロ兄」
SUVの助手席に押し込まれるサロ。液体のように、体がシートに沈み込む。
「……どうして……なんでこんなことに……ジェン」
「日本語喋ってくださいよー。もう、サロ兄すぐ泣くんだから。……この前の映画のときも泣いてたでしょ。普通に見えてましたよ」
「ジェン……僕は……」
「私はあの狼さんと喋ってるうちに気づいたんですけど……サロ兄、何となく分かってたでしょ? 『GENE、お前じゃね』って」
「……そんなこと……ない」
「私に人格はないよ。サロ兄」
「ありえない」
「MEMEはともかく……GENEはただの箱。本来人間が入るべきオブジェクトなんだってさ。3Dモデルも、人格も、備わっていないはず」
「じゃあ……じゃあお前は……? 今、俺は誰と話してるんだよ!」
「さあね。私はサロ兄の……なんだろね」
「……」
「ほら、すぐ帰って、ジーナちゃん助けよう。私は快く退散するよ。……サロ兄の夢だもんね」
「……」
「サロ兄。これは人格じゃないよ。さっきは『殺せなきゃダメ』って言ったけど……殺すも何もないよ」
「……嘘だ……嘘……だ」
「サロ兄」
「お前を消すなんて……できない」
「……」
「……お前は……辛くないのか……? 辛くもなんとも――」
「私は辛くないよ。サロ兄。『これは人格じゃない』。辛いのはサロ兄でしょ」
「ふざけるなよ……何だってんだよ……」
「……寝なよ。運転するから」
「……」
「大丈夫。まだ消えないよ」
「……うん」
――何だ、その返事は。なぜ自分は、頷いていられるんだ。