Direct-View AR / 本編
DiVAR - Construction
第一章
1|AR/幽霊
Luna wants to quit her job
ルナは仕事を辞めたい
「きつ」
配属されて五日目の朝。白浜ルナは早くもこの仕事を辞めたいと思った。
デスクには何も置かれていない。職員は数えるほどしかいない。ARの普及したこの時代、オフィスに机と椅子以外の物体は必要なかったし、わざわざオフィスに来る者も少なかった。多感で繊細な新入職員にとって、半ば放任に感じるこの時間は決して精神に良いものではなかった。
例によって今日も、たった数百部の報告書をひたすらに眺めていなければならないという。ルナは三周目にして全報告書に登場する子音を数え終えてしまったので、次は母音を数えることにした。
報告書の内容は、街に現れる『妖怪・幽霊』についての調査記録であった。妖怪や幽霊といっても、その正体は人工知能で動くARオブジェクト『MEME』であり、オカルトとは無縁の代物である。人類はAI技術とAR技術をかけ合わせ、そこに様々な救いを求めた。
MEMEにできない仕事は、ほとんど『物体を動かすこと』のみである。受付事務、弁護士、会計士、経営コンサルタント、秘書――窓口業務および情報処理の仕事はMEMEに任せることができる。飲食店ではMEMEがオーダーを受け、配膳ロボットが皿を運ぶ。中学、高校の教員の半数はMEMEである。歴史の授業にいたっては、織田信長の最期について本人の口から語ってもらえる。(明智光秀への雪辱を果たそうと暴れだす前に停止されることになっている。)
「白浜さん。係長より連絡です。本日はPM調査報告書を一通り読むようにと」
服を着たハムスターが昨日と同じ伝言をよこす。
「ありがとうございます。えっと」
「平片です」
「どうも、平片さん。子音の数はおよそ23万個だったと伝えていただけますか」
「はい。……そろそろ現場に連れていけとお伝えしたほうが?」
うなずくルナ。MEMEの音声認識力と翻訳力に驚かされる。おそらく係長の推察力では不可能なほど、私の意思を汲み取ってくれる。平片を含め、ルナの上司のうち数名はMEMEであった。
ルナが思うに、MEMEの開発者はよっぽど仕事をしたくなかったらしい。今のルナには彼らの気持ちがよく分かったが、その共感はすぐに消え失せる。彼らは『もう仕事をせずに済む』を目標とし、一生懸命に仕事をして、新しい仕事を生み出したのだ。
MEMEたちは十分な品質確認をされず、文字通り世にリリースされた。未熟な技術が生んだ守護霊の中には、悪霊が混じっていた。MEMEを監視し、トラブルがあれば対応し、悪霊はデバッグする。それが、ルナの所属する『KALM 運営部 PM監視課』の仕事である。
「PM-43に更新だそうです」
平片が伝え、虚空に浮かぶ質量ゼロの硝子板をよこす。ARオブジェクトであれば、MEMEにも動かせる。指先で硝子板にふれると、報告書が開く。PM-43は皆がよく知るMEMEだった。
PM-43:サンタクロース
呼称: サンタクロース/サンタ 等
初観測: 2131年11月14日(京都AL起動元年)
予想発生時期: 1900年頃
危険性:『無害』『軽微な迷惑』
主な構成素: 『書籍』『クリスマスプレゼント』『企業広告』等
定義:赤い服を着て白い髯をはやした老人の姿で知られる、伝説上の人物。キリスト教の聖人ニコラスに由来する。空飛ぶそりに乗り、クリスマス・イヴに子供たちにプレゼントを配って回るとされる。時代や地域により見た目や人物像は異なる。
作用傾向: 毎年12月、比較的浅深度の拡張層にて視覚的に観測されます。その多くは当該観測者がその時点において購買意欲をそそるような商品を携えた、自身の親族の姿として報告されます。PM-43は12月25日の深夜から未明にかけて、観測者自身の寝室で最も多く観測されます。 有害な情報的作用はこれまでに確認されていません。
懸念: PM-43が上述の定義に沿う視覚的形質や人物像を示したという報告は僅かです。10歳未満のOSIアカウント作成は禁止されており、これにより10歳以上の認識平均が反映されることが主要因と考えられます。 PM-43の調査・監視において、視覚的形質が観測系間で共有されないことに注意してください。
追記: 2142年12月、「親族(実際はPM-43)から受け取ったはずのプレゼントが消失している」という旨の窃盗事件が警察に3件通報されていることがKALM除霊1係の調査により発覚しました。いずれも通報者の親族によるプレゼント購入の実態はありませんでした。これらはPM-43による視覚的欺瞞の被害であり、通報者の虚偽通報容疑は取り消されました。
他にもっと調べることがあるだろう、とルナは思った。
「PM-90も、更新だそうです。90は確か……『アマビエ』だったかな」平片が知らせる。
「……どうも」
ルナは全ての仕事をしたくないわけではない。
ルナはPM監視課の『除霊2係』に配属された。これは彼女が望んだことである。除霊係の仕事は現場でのトラブル対応であり、デスクに座って報告書を読むことではないはずだった。
「平片さん、母音が私と同じ」
「……確かに。きっといいことです」
Luna sees through the lies
ルナは嘘を見抜く
「ちょっといいかな。この文章、誤翻訳だと思うんだけど、ニュアンス分かる?」
声をかけたのは『ヒト』の上司だった。
「いいえ、すみません。英語はそんなに分からないので」
「ああ、そう。ごめん、てっきり。でも白浜さんって……」
またか、とルナは思った。
「一応、イギリス人です。両親はイギリスに住んでますが、私は日本語しかわかりません」
ルナの両親は共に欧州と日本のミックスであった。いくら鏡を見ても、いくら日本語を話しても、ルナは『自分が〇〇人である』という説明にしっくりきたことがなかった。この時代、『日本』といえば、もっぱら人の住める近畿地方と九州地方のことであり、『日本人』といえば、元から日本にいた人および日本に移住してきた人のことである。
およそ百年前、何らかの原因で荒野や廃墟と化した地域から、無事であった各国への大規模な移民があった。そこから数世代を経て、街をゆく人々の国籍は多様化し、人名の由来も多様化した。国の名前は単に場所の名前となり、人種や個人のアイデンティティを指す用法としては、文字どおり筋が通らなくなった。
それでも、履歴書には国籍の欄があるし、組織はなぜかその期限切れの道理を知りたがる。
「ああ、そうなの。すまないね。気をつけるようにしてるんだけど……古い人間なもんで、その辺ちゃんと分かってなくて」
これは嘘である。ルナは昔から、人の話に含まれる嘘が分かる。
おおかた、こちらのデリケートな問題が未知で恐ろしく、『古い人間』というあちらのデリケートな問題を持ち出して自分の過失を均したいのだろう。ルナは嘘を見抜く自分の特性と、それに続いて自然発生する、こうした憶測が嫌いだった。
「大丈夫です、私はそういうの気にしませんから」
相手の嘘には、自分の嘘が続く。
「それ、ネットで調べましょうか」
「いいよいいよ、こっちでやるから。報告書を読むのが白浜さんの仕事」
嘘を見抜けたとして、その先はルナにも知り得ない。この上司は「悪いことを聞いた」と思ったのか「西洋人のような顔をして、紛らわしい」と思ったのか。無知の暴力について世界の誰かが責任を負うとして、上司は今回どうすべきだったのか。
最近、友人に「繊細だね」と言われたことを思い出す。ルナ本人からするとそれは少し違うというか、それだけではない気がした。憶測の方はともかく、嘘を見抜くことに関しては『何となく分かる』ではなく『確実に分かる』のだ。しかし、確信に至る原因と原理は、彼女自身にも分からなかった。
ARグラス越しの視界にチャットの通知が映る。テレワーク中の係長からだった。
深深度に潜ったことないって聞いたんだけど、とりあえずこの研修受けといてくれる?
ARを使用することをしばしば『潜る』と表現する。重ねられたレイヤーの最上層を現実として、拡張された下層のレイヤーに潜っていくイメージでそう言われる。深く潜れば潜るほど、見えるオブジェクトも増える。同じ場所、同じ時間にいたとしても、潜っている深さによって見える景色が違う。街をゆく人々は大体の場合、皆違うものを見ている。
嘘に敏感であるためか、ルナはARに頼り切った昨今の生活に違和感を持っていた。
本や書類はARで読み、音楽や動画はARで見聞きし、調べ物やSNSは虚空を見つめるだけで始められる。部屋に物質の装飾品は必要ない。ARデバイスを持たなかった学生時代、ルナは自身以外に『裸眼』で――ARを使わずに――生活している人間を見たことがなかった。授業中、学生が揃ってARグラスやARコンタクトレンズを使う中、当時のルナは旧式デバイスと揶揄される『スマートフォン』のカメラを教壇に向けていた。
講習は最寄りの大学で実施された。内容はほとんど学生時代に習うものだった。耳が痛かったので、ルナはARグラスを外し、久々に旧式デバイスを使うことにした。
「本日の白浜猫背平面の曲率は三割増し、と」
意味の分からないことを呟きながら、除霊1係の同期が隣の席に着く。
「でもその柄は好きよ」
講義室は寒かった。ルナは紺色のアウターを羽織っている。赤と白のチェック柄は、ルナの猫背具合を知らせる格子線として機能している。
「おはようございます。鳥越さんのコートはお似合いで」
「ああ、ごめんなさい。苗字で呼ばれるのって好きじゃないの。華名って呼んで。おはよう」
「服、素直に似合ってると言われたほうが嬉しいんですけど」
「ええ。できればそう言いたかったわ」
この人は悪態しかつかない。それでも、ルナにとっては一番扱いやすく、無駄に頭を使わなくて済みそうな相手であった。鳥越華名はルナに対して、未だ嘘をついたことがない。
「旧式デバイスはお似合いね」
「メガネが似合わないって、自分で分かるんです。あなたと違って」
Deep Depth AR
深深度AR
「このように、ひとつのARオブジェクトを成り立たせるためには、当該オブジェクトの形質を全デバイスで同時刻・同様に描画する必要があります。『そこにリンゴがある』とその場にいる全員が認識することで初めて、『そこにリンゴがある』が成り立つのです。あるユーザーには見える、あるユーザーには見えない、ということが起きてはなりません」
例によって講師はMEMEだった。本当はそこに居ないはずの講師の言葉を聞き流しつつ、ルナの思考の糸はゆっくりと漂い、絡み合う。中学生の頃、歴史の授業で戦国時代を教わった相手は、デバイス越しの教壇に現れた武将たちだった。ホトトギスがどうのと織田信長本人が口にした辺りでルナの興味は半減してしまったが、あれは彼女にとって珍しくAR用のデバイスが欲しくなる授業だった。
左手に持っていた旧式デバイスを落としそうになり、はっとする。休憩時間をも寝過ごしたようで、講師が替わっている。
「――高圧AR症候群『High-Pressure AR Syndrome』の略。裸眼でARが見えると訴えたり、幻覚をARだと勘違いしたり、症状は様々だ。この患者は雨の日に『傘化け』が襲ってくると報告しているが、ARの可能性を考慮してもその事実はなかった。『河童』に引っ張られて橋から落ちた、などと言う患者もいる。うつをはじめとした精神疾患を併発することも多い。HiPAR罹患が疑われる場合、速やかに受診すること。それまでは必ず誰かと一緒にいること。長期的に意識を失ったHiPAR患者が回復した例はない」
講義室が分かりやすくピリつく。
『HiPAR』はネットニュースで飽きるほど見かける文字列であった。精度の高すぎるAR技術の代償として、人々は現実を見失いやすく、あるいは現実を放棄しやすくなった。自分とは無縁の病気だと思っていたが、AR技術の運営を担うルナの仕事上、無視できない問題であった。
「……ARのホラーゲームが禁止になったのも頷けるな。君らが小学生の頃から聞かされている脅し文句だろうが、更に詳しく学ぶ以上、ここでも言わなければならない。周りに聞いてみて、もし自分にしか見えないオブジェクトがあったら、そいつはオブジェクトじゃない。幻覚だ。深深度には絶対に単独で潜らないように。……深深度ARとは何か。ベッカーさん」
「……『さわれるAR』のことです」前列の男性が気だるそうに答える。
「そう。正確には従来のAR――視覚と聴覚を再現する技術に、長年の悲願であった『触覚AR』および『味覚AR』を重ねた技術のことを指す。五感のうち四つは再現できるってことだ」
「嗅覚はなぜ再現できてないんですか?」別の受講生が問う。
「うん。いずれ再現されるだろうが、嗅覚だけは少し勝手が違う。端的に言うと……脳にとって、嗅覚情報は記憶や感情に近いものだから、扱いが難しい。単純に、技術の優先度が低いのも理由の一つだろう」
深深度ARが実現した今、ARオブジェクトの筆を持って絵を書き、ARオブジェクトの楽器にふれて音を奏で、ARオブジェクトの寿司を――栄養は一切摂取できないが――味わうことすらできる。完全栄養食に深深度ARを載せて食べるという新しい食事の形も、是非は問われど広まりつつある。嗅覚を除き、人類は五感のほとんどをARで満たせるようになっていた。
「いずれ、ARは現実の全てを再現するようになる。対策を進めなければ、HiPARの幻覚症状は更に増えるかもしれない」
ルナの挙手は半ば反射だった。視界から講師の姿が消え、旧式デバイスを持った手を挙げてしまったことに気づき、慌てて持ち替える。
「幻覚とARの違いは何ですか」
ルナには、HiPARを患わない自信があった。自分の高精度な嘘発見器は、幻覚ごときに騙されたりはしないだろう。
「『みんなに見えるか否か』だ」
「……嘘かホントか、じゃないんですか」
「嘘もホントも無い。他人からしたら、君が今何を見ているのかは分からないからな。最新のOSI――街のARシステムは、接続者全員の認識平均を元に『正』とする。これを『基底観測系』という。皆の合意した共同幻想こそがARの本質であり、この時代、この街における『現実』だ」
あまり腑に落ちなかったが、そういうものか、とも思う。違和感があったのは、自分が嘘に敏感である所為かもしれない。仮に嘘発見器が役に立たなかったとしても、人並みに気をつけていればいいはずだ。
隣席の華名が手を挙げながら発言する。
「なら、私たちは一体何について話をするんです? 嘘かホントかは、そのメガネを外せば判ります。私が今日ひとりで摂った朝食は、確かに実在した」
「『君が今日ひとりで摂った朝食の目玉焼き』をこの講義室は認知していない。この街はその真偽に興味を示さない。よって、残念ながらこの街の現実ではない」
数名の受講者がフムフムと頷く。彼らの理解を助ける良いデモンストレーションになったらしい。
「ひとりで見たものが全て『嘘』だというなら、それこそ、現実を見失って当然では」
「嘘かどうかは知り得ないし、それは問題じゃないと言っているんだ。そうやって疑いを深めていくのは、HiPARの罹患を招く。……まあ、OSIには皆の五感情報が記録されているんだ。履歴を見てみれば、君の目玉焼きの出来栄えも、味も、皆に知れるだろうさ。今朝、そのメガネをかけてさえいれば」
「面倒な時代に生まれました」
「鳥越さん。君は自分が『観測主義』ではないのをいいことに、講義室のエリア深度を悪化させたいのか? それとも退出したいのか?」
「……両方です。集団心理で私の眼を眩ませたくない」
ため息をつく華名。彼女の過去に何かあったらしいと、ルナは窺い知る。
「天下のKALMが呼んだ教授でさえ、対処療法しか提示しない。根本の原因を究明すべきです」
「ごもっとも。それが我々の仕事ですね。他になにか言いたいことは?」
「目玉焼きではなくポーチドエッグです」
華名が立ち上がり、ルナの肩に触れる。
「ハンナ・フォーゲル。日本名で呼ばれるのもホントは好きじゃないの」
言い残し、ハンナは割合ゆったりした足取りで講義室を去る。背が高い、とルナは思った。ブロンドのショートヘアと、ベルト付きブーツのバックルが外の光を反射する。このときルナは初めて、ハンナの容姿を見たような気がした。
The heartless city
非情な街
昼食を終えてオフィスに戻ったところで、ハムスターの平片が朗報を告げる。
「あ、白浜さん。1係の河合さんが午後から現場だから、ついていくかって。係長から」
ルナは分かりやすく喜んだ。もう報告書の束とにらめっこする必要はない。今日のような日には、帰りに甘いものを買うことにしよう。それくらい浮かれたほうがいいはずだ。私には、この話が本当だと分かるのだから。
「ホントだ」
「え? ええ。良かったですね」
不思議そうな平片の顔に、真偽の先読みで変な返答をしてしまったと気づく。
「あ……えっと、ちょうど今、係長からチャットが来て」
こちらは嘘で返してしまった。
「あ、なるほど。……いや、ちょっと強めに提案した甲斐がありましたね」
「平片さんが私担当でいいのに」
「あはは……係長、今忙しいみたいで。なんでも今日はエリア深度がよく動くんだとか」
なんだかうまくかわされたような、下手すれば軽くフラれたような気分だった。
「平片さん、モテるでしょう」
「いいえ?」本当にそう思っているらしい。
「なるほど。自覚なし、それ以上の情報もなし、と」
「え?」
「行ってきますね」
「……ええ。お気をつけて」
ルナに好かれる方法の一つは、彼女の嘘発見器があまり役に立たないよう話すことだった。
自動運転の公用車に乗って現場に向かう間、ルナは河合の話を聞いていた。助手席には河合と同じ1係のハンナが座り、後部座席にはルナと平片が座った。ルナがごねたので、平片もついてくることになった。MEMEに身体の縛りはないため、ある程度の距離は瞬間移動できるし、今回のように分身して複数の仕事をこなすこともできる。
「白浜さん、そのメガネの対応深度は?」
「2.5です。深深度は未対応で」
「ついてきたって、見えないんじゃ意味ないわ」ハンナが口を挟む。
「鳥越、お前もさっきメガネ変えたばっかだろう」河合がツッコむ。これは事実らしい。
除霊係の公用車には各ARデバイスが備えられている。その中から、深深度対応のARグラスを借りることにした。
「河合さんはコンタクトですか」
「普段はね。現場ではメガネに変える。すぐに外せない分、コンタクトは危ない。……そうそう、今回はそんなに潜らないから、対応深度は3.5くらいで十分だ」
メガネを変えると、自動でルナ自身のアカウントが認証される。見慣れないGUIに、『Current depth 1.0』とある。質問しようと顔を上げると、ハンナと河合の頭上にそれぞれ『2.5』『2.8』の数字が浮いているのが見えた。
「なんです、この数字」
「利用中のAR深度。除霊師のデバイスは、個々人の利用深度が眼で見て分かるようになってる。まだベータ版らしいけど、十分参考になるはずだ。これ、一応読んでサインしといて」
河合がルナとハンナの二人に硝子板を渡す。初調査の前に必要な周知記録だった。
ARの浸透以前は電子データをファイルとして扱っていたらしいが、今では電子データをオブジェクトとして扱うのが一般的だった。データの管理方法は数多く模索されたが、『物質ライク』な取り回しの良さから、結局人々は離れることができなかった。ARオブジェクトは『ファイル形態』と『物質形態』をとれるが、後者のほうが空間的に認識しやすく、ルナもこちらが好みだった。
都市型観測系相互接続モデル『OSI』および個々人のデバイスによるARの再現度は、精神がそこから受ける圧力を潜水調査の用語になぞらえ、『深度:depth』という尺度で表す。浅いほど再現の精度は下がり、心身が受ける影響は少ない。深いほど精度が上がり、現実を見失う危険性が高い。以下のように区分される。
〔物理層:PL〕
『depth 0』:物理層。AR未使用状態。『裸眼』。
〔拡張層:AL - 浅深度〕
『depth 1.0 〜 1.9』:インフラ層。最低限のAR・硝子板・仮想ハードデバイス等を利用可能。
『depth 2.0 〜 2.9』:アプリケーション層。ゲームなどを含めたほとんどのサービス利用・人工知能ARオブジェクト『MEME』とのコミュニケーションが可能。
〔拡張層:AL - 深深度〕
『depth 3.0 〜 3.9』:触覚層。有触覚AR(深深度オブジェクト)を利用可能。オブジェクトの描画精度が高く、通常の物質との見分けがつきにくい。
『depth 4.0 〜 4.9』:五感層。主に研究開発目的で利用される。利用には申請が必要。完全五感AR(開発段階)の利用が可能。オブジェクトと物質を見分けることはほぼ不可能。黒塗り部は国際AR連盟2秘情報のため加盟団体にて勤続1年以上を要する。
〔深層:DL〕
『depth 5.0 以深』:原則利用禁止。『■■■■■』。■■接続AR(構想段階)の研究用途。
平片のほうを振り向くと、『1.6』とあった。
「MEMEにも利用深度ってあるんですね」
「ああ。まあ、MEMEの頭上にあるのは、正式には乖離度って呼ばれるものだ。数字が小さいほど、この街にとってより現実に近く、システム――OSIにとってより重要だと扱われるってわけ。誰の役にもたたなければ徐々に数値が大きくなる」
思っていたより殺伐としているMEMEの境遇に、ルナは少し哀れに思う。
「信用の可視化みたいなことですか」
「まあ、どちらかというと株価、期待値に……いや、フォロワーの数に近いな。悪事を働けば数値は悪化するどころか、改善することすらある。MEMEにとっては、忘れられることのほうが致命的なんだ。信用できるかどうかは、数字じゃわからない。だから悪霊が湧くし、俺たちの仕事がある」
「なんか、怖い話。……ハンナ、平気?」
「全然。それでホントについてくる気? あなたメンタルもたないかも」ハンナが言う。
「じゃあ大丈夫。ハンナが大丈夫なうちは少なくとも」
「まあまあ。よっぽど凶悪な霊じゃなきゃ、極端なテコ入れは――『除霊』は、しないから」
不要とされたMEMEは消える。除霊とは、まさにそれを強制することであった。
数秒の沈黙があったのち、ハンナが口を開く。
「ヒトに乖離度がなくて良かったわね」
見えないだけで、あるんじゃないだろうか。ルナは思った。
Luna wants to be an exorcist
ルナは除霊師になりたい
「――というのが、今回の調査対象の情報だ。通報などは無く緊急性は低いが、定期的なエリア深度の変化が見られる。この飲食店は経営者を除いて全員MEMEだ。複数の悪霊がいる可能性もあるから気をつけろ。……っと、今回君らは視察だったな。俺が全部やるから、車内から投影映像で見てな」
ハンナの前に浮いている硝子板に、SNSの画面が映っている。ハンナにはサボり癖あるいはSNS中毒の症状があるのだろうか。
「鳥越、話聞いてたか」
「……緊急。京都駅北側の通り、車道に巨大な板状のオブジェクトが出現、SNSで拡散中。自動運転車が停止して交通が混乱状態。板は不安定で、倒れそうだと。これって――」
「承知。急行」
河合が運転管理手のMEMEに告げる。フロントガラスに貼り付いていた二次元体のMEMEが、行き先の設定を変更する。
行き先を変更しました。『下京区烏丸通』 緊急車両レーンに移ります。
「サンキュー、鳥越。そしたら、運営部のブロードキャスト、繋いで」
河合の無駄のない端的な指示が、普段よりゆっくりで柔らかくなった声色を引き立たせる。ハンナの新入職員とは思えないほど的確で、少し焦燥の混じった対応を、空回りしないように支えている。
続けて、河合が無線連絡をする。
「緊急。緊急。京都駅周辺、原点不詳。車道に巨大オブジェクト出現。エリア深度悪化中。重心の特定急げ。設計規定違反の違法オブジェクト。全て深深度。監視課は設計者および所有者の特定を。……今回はシェード展開の前に終わらせよう。以上」
分からない言葉が多かった。これから分かるようになるのだろう、と思ってルナは聞いていた。状況と自分のすべきことが分からず、不安になる。
「大丈夫、ヒトは死なない。アレが倒れてもな。君らは心だけ保って」
河合の言葉に嘘はない。上がった心拍数が果たして相応なものなのか、ルナは分からなくなりそうだった。所詮、アレはARでしかないのだ。下敷きになっても死にはしない。理性がバカバカしいと確信する一方で、妖怪に襲われたと言ったHiPAR患者の心情が分かる気がした。
「鳥越。交通課に位置情報」
「共有しました」
「うん。白浜さん。2係に応援要請したから、情報共有お願い」
「はい」
「よし。平片さん。一緒に現場来てもらえますか」
「承知。……白浜さん、ここは集中したいから、一旦離れるよ」
ルナは平片の仕事スイッチが入るところを初めて見た。
「たぶんうちのMEMEがすぐに来るから……ほら」
窓の外を見る平片。2係のMEMEが2体、公用車の外を飛びながら並走していた。
「平片は新人見ときな。先に現場行ってる」
言い残して消える2体。瞬時に現場に到達できるのは、除霊係にMEMEがいることの強みであった。
「……だそうなので、一緒に見ていましょうか。白浜さん」
白昼の日差しを不自然に遮る壁があった。周辺のビルの高さをゆうに超える黒い板が、車窓を流れ去るビル群の隙間から見える。この隣の通りだった。
「モノリス……?」
「はは、君らはラッキーさ。初調査でこんなデカイのに当たるなんて」
車が停まる。ルナは自分が除霊師を志したきっかけを思い出していた。そうすれば、自身のアドレナリンもいいように扱える気がした。
「さあ、行こうか。これが除霊師の仕事だ」
ルナはずっとその一言が聞きたかった。