TAME - 2 / Inflation
2-1
利害不一致
「で、どうだった?」
今回の抜け駆けにクレームをつけ終えて、ジーナが尋ねる。
「視野、二次元だった」
「……そうだっけ?」
「文字は単色、動かない」
「うん」
「音には色も形もない。街は灰色ばっか。ジーナは思ったより背が高い」
「不服ですか」
「いや、これで合ってるのか不安なんだ。僕は今、ジーナと同じものを見ているのかなって」
「失礼だな……大体合ってると思うけど。キャリブレーションしとく?」
「いや、まだ大丈夫。お化けが見えたら頼むよ」
「……了解」
長年の謎の答え合わせをするように、サロは文字を学び、自然やモノの造形を見て回り、好きだった映画を観て過ごした。世界の応答がこんなにも早い。サロはまるで脳が頭蓋という檻を脱出したかのような開放感を覚えた。ジーナにねだって公園を散歩すれば、『青空』『夕焼け』『鮮やか』といった語彙の質感が染み入るように分かった。
「あ、え、ちょっと待ってジーナ。誰この人? 人?」
「……なにその質問。それ、ARだから、そのまま突き進んだら消えるよ」
「絡まれたらどうするの」
「殴られても当たらないから」
サロは街なかで突然現れる視線追尾型のAR広告に怯えることが多かった。中でも苦手だったのは立体オブジェクトの客引き広告で、たとえARであっても、進行方向を遮られてしまえばサロは立ち止まってしまう。DiVARがそもそもARの技術で視野を再現する特性上、ARと物質との判別は難しかった。初めのうちはARをあまり使わないよう、ジーナに勧められた。
サロの表情は目に見えて変わっていた。あどけない子供のような眼差しから読み取れるのは、ジーナには抱えきれないほどの好奇心だった。友人から「ほとんど親子」と評されることもあったが、ジーナは満更でもなかった。半年ほどの間、サロはまだ手のかかる子供であった。
ジーナが理解できなかったのは、教師から「今までよく頑張ったね」と言われたことだった。何かが終わったとでも言うのだろうか。以前にも、ジーナの境遇を哀れんだり、同情したりする文脈はあったが、ジーナはそれも理解できていなかった。周りから見ると、この兄妹の中では何かしらの悲劇が始まっており、いつしか終わっていたらしい。その飛躍した物語を思うと、ジーナは非常に腹立たしかった。
「兄。もう寝る時間だよ」
「あ、うん」
「はい。お手」
「それ、やめてよ。恥ずかしいから。ひとりで歩けるよ」
「へえ。盲導犬に指図されたくないってこと?」
「……それはきついって」
自分のものではないのかと疑うほど重い腕。サロはそれを無理やり糸で吊り上げるようにして差し出す。ジーナの声色に尖った不純物のような――傲慢に擬態した不安を感じとり、今はそうしたほうがいいと思った。サロがジーナとの会話を難しいと感じたのはこれが初めてだった。
「……僕がジーナに歯向かえないことを思い出すんだよ」
「ほんとに嫌だったら言うんだよ?」
「分かってる」
サロは程なくして一人で生活できるようになった。
ジーナは空いた時間をどのように過ごせばいいのか、ほとんど知らなかった。好きな漫画も、映画も、サロに伝えるために用意したものだった。
ジーナの胸は苦しくなる一方だった。かつてサロの脳に届くべき『光』を担っていたのは自分である。サロの身体感覚を担っていたのも、サロが持つ意味感覚を作り上げたのも、サロの生活を支えていたのも、自分である。その役目を、徐々に、確実に奪われていく。その犯人は、あろうことかサロ本人であった。
気がつけば、ジーナは自分が何の役を降ろされたのかを数えるのが癖になっていた。
理性では、ひな鳥の巣立ちは祝福すべきとして、余計に自己矛盾を重くする。
初めから自分は、サロの成長なんか願っていなかった。
この世界の広さは、余計だった。
2-2
フィリアルデューティ(対人類)
芝原 13:22_特に理由はないよ〜
サロが施術を受けた冬期休暇期間の後、リストは学校に来なくなった。
そのまま高校卒業を迎え、ついにサロがリストの外見を知ることはなかった。連絡先は知っていたが、DiVAR施術の一報から数ラリー続いたのちに会話は途絶えてしまった。分かるのは、同じ大学に通っていること、よく食堂の隅っこで作業をしていること。そして、姿を消した理由は特にないとのこと。
望まぬかくれんぼが始まって以降、サロは声しか知らないリストのことを見つけるため、外出時に耳を澄ますのが癖になった。
サロは大学で『接続医学』――街のARシステム『OSI』を応用した相互扶助的医療について学んだ。これはサロが使っているDiVARの実現を可能にした学問でもある。サロは人類の技術が後天的に授けてくれたこの視覚を、次の人類のために使ってみたいと思った。大学を出た後は、街のOSIを運営・開発する国家機関『京都拡張層管理局(通称:KALM)』に入職しようと考えていた。
「進路ね。……KALMにしようと思う。僕は接続医療に助けられてるから」
「なるほど?」
「DiVARはOSIを元に動いてる。OSIは街の皆の五感体験を繋いだものだ。つまり、僕はこの街の技術と、この街の皆のおかげで眼が見えるようになった」
「技術と、皆」
「そう。そこに報いることに、今は興味がある」
「そこに私はいないんだね」
特にミスリードというわけではなかったが、サロはジーナの根本の思考に気がつかない。
テーブルにコーヒーと紅茶を置く配膳ロボットの動作が、やけに遅く感じる。
「……ごめん。今までのことはホントに感謝してるんだ」
「感謝? なぜ」
「なぜって。今まで僕を助けてくれたからだよ」
「これからも助けるよ」
「あ、ありがとう」
「何も変わってないし、何も終わってない。だからそんなふうに大きな感謝をしないで」
「……うん」
カフェの中が急に静かになったように感じた。無音が耳に貼り付いて取れない。
「僕がKALMに入ることは、ジーナは嫌なのかな」
「嫌じゃないよ。夢に向かって頑張る兄を見ているのは――」
ジーナが急に言葉に詰まるところを、サロは初めて見た。
「ジーナ?」
「『なりたいものなんて無い』って、そういうことか」
「え?」
「私には、ないの。やりたいことすらない。兄にはある」
「……まあ僕だって、やりたいことがないことのほうが多いよ。つい最近まで無かったし」
「つい最近、だよね。見えなくなったのは。兄は、前より私のことが見えなくなったみたい」
ここで謝るのは余計だ。なるべく早く正答しなければならない。ジーナの気持ちを元に戻す手立ては、それを除いて他にない。サロは黙って脳を動かし、程なくしてフリーズした。なぜ、ジーナをやり過ごそうとしている? 気を遣うのではなく、一緒にこの悩みを解決すべきではないのか? まるで気が置ける他人と会話をしているかのようだ。
「私も、兄が見えなくなった。……いや、違うね。見てられない。初めから、見ようとはしてなかった。ちょうどよく視野に入ってただけ。でもね、私が世界から許されるのは、兄を見ている間だけなの。そのためにこの世界にいるの」
何の話だろう。世界の話なんかしていない。ジーナが一般化した抽象的な言い草をする話題は、限られている。兄妹あるいは家族についての話だけだ。
「間違っていたらごめん」と言い出しそうになり、やめる。そうしてしまえば、正答すら誤答に変わる。
「父さん母さんに、何か言われた?」
ジーナの視線がサロを突き刺す。古い友人と再開したときのような表情。
「……わお。もしかして、見えてる?」
「ちゃんと見えてるよ」
サロは安堵する。大丈夫、今僕らは同じものを見ている。
2-3
フィリアルデューティ(対ジーナ)
「久しぶり。はじめまして、ね」
「僕からしたらね。……父さんは?」
「少し遅れるって」
両親の顔は写真で認知していたが、DiVAR施術後に顔を合わせるのは初めてだった。両親とあらたまって話をするのは思ったより居心地が悪い。でも、人生の駒を進めるとは、普通、そういうことなのだろう。普通と違うのは、初めてこの眼で見た人間が母親でも父親でもその他大人でもなく、自分より後に生まれたジーナであったことくらいだ。
「DiVARの調子はどう」
「おかげ様で。ちゃんと見えてるみたい。母さんたちの仕事……人類の技術がこれを作ってくれたおかげ。そして――」
「ジーナのおかげね」
「ホントに」
進路の相談は、母親の二つ返事であっさりと終わった。
「感慨深いわね。月並みだけど、『すっかり大きくなって』ってやつね。良かった。二人でうまくやってくれてて」
「うん」
「……ごめんね。二人っきりにしてしまって」
「世界を救うので忙しいんでしょ。親の大義を知れば、孤独は誇りと勇気に変わるよ」
「……ありがとう。ジーナは、どう思ってるかしらね」
「どうだろう。連れてきたら良かったかな」
「今度、直接話すわ。大丈夫」
母親の表情を見る。何も、会話に対する違和感は無いようだ。
「感謝してるの。あの子には。本人の前でこんな事言うのはどうかと思うけれど――あなたが一番感じてることだと思う――今まで大変だったろうから」
ようやく注文の品が来た。
「ジーナがほしいのは感謝じゃない」
「え?」
「……らしい。どう思う? 何か知ってる?」
「うーん。照れ隠し……?」
「ジーナは照れ隠しをしない」
「ああ、そう、ね。あの子は照れ隠しはしない」
例えば外食のメニューを考えるとき、サロは五回に一回は「たまにはジーナの好きなものでいこう」ということにしている。なかなか決まらないので、「どれ選んでも大丈夫」と後押しすると、ジーナの応答が数秒遅れる事がある。その後「しょうがないな」という旨を小さく返答する。
ジーナはたまに照れ隠しをする。この人はジーナのことをあまり知らない。それは、仕方のないことだ。
「もしかして、寂しいのかしら。あなたのこと、反抗期の息子だと思ってるかも。眼、見えるようになったから」
「最近、ジーナの元気がない。一見そうは見えない。でも声で分かる。ジーナのあの声色は、寂しいなんてもんじゃない」
「そう……」
何も返ってこない。母に対して怒りを感じる筋合いはない。それでもサロは確かめたかった。正義感でも、責任感でもない。これは、自分の身勝手な好奇心だ。
「ジーナは僕のために生まれたの?」
2-4
幽霊
明確な応答は得られなかった。
沈黙の音圧に耐えきれなかったのはサロのほうで、すぐに謝って話題を変えてしまった。
母は、図星を指されると、黙るのだろうか。サロは自分の論理の欠陥に気づく。自分は、母のことをあまり知らない。お互い様だった。
結果的にサロは己の志望通り、KALMに入職した。以降、帰りの遅いサロはジーナと過ごす時間を減らさざるを得なかった。二人が会話をするのは、もっぱらKALMの週3日の休日、それもジーナが大学に行かない間だけであった。その間であっても、会話の少なさは以前の比ではなかった。
サロは幽霊を見ることが増えた。定期メンテナンスを怠ったDiVARの利用者にはよくあることらしいが、サロにその心当たりはなかった。ジーナとのキャリブレーションは毎週のように実施している。考えられる可能性は三つ。『OSIやDiVARの不具合』『何某かの理由で、ジーナと同じものが見えていない』『ジーナと同じものが見えていて、ジーナにも幽霊が見えている』。この悩みをジーナに伝えるタイミングは、今ではない気がしていた。
ジーナは「世界から許される」と言った。仮に、両親から与えられた宿命が原罪と化しているとして、ジーナはそれをどう思っているのだろう。なぜ、罪になったのだろう。誰に、許してほしいのだろう。まだ、肩の荷が降りていないだけだろうか。
眼の見えない間、世界はサロが強風で転ばぬよう、常に守ってくれていた。その多くはジーナのおかげだった。温室で育ったサロは、その外で強風に煽られていた人の感情を知らない。
「ごちそうさま」
ジーナの食事の量は目に見えて減っていた。
「ジーナ。キャリブレーションがしたい」
「何について?」
「君の気持ちについて」
「無理だよ。私にも分からない」
「幽霊が、見えるんだ。ジーナにも、見える?」
長い沈黙。
「……見えるよ。最近、見えるようになった。『東京に来い』ってうるさいやつ」
「同じ。キャリブレーションはうまくいってる」
「……つまり、私の言語化できないモヤモヤが、兄に伝わっていると、いいたいの?」
「伝わってはいるんだ、きっと。でも、この意味感覚は、解読できない。いまだかつて、ヒトはこの感覚を言語にしたことがない。該当する表現はまだない。怖い。だから、幽霊に見えるのかもしれない」
ジーナは俯いて黙り込み、諦めたように笑う。
ややあって、他に仕方がないように同意する。
「……怖いよね。ホント」
テーブルに落ちる涙が、見えた気がした。初めて見る光景。現実か、幻覚か、ARか、分からない。
無力感が呼吸を浅くする。戦況を変えようと立ち上がる怒りは行き場をなくし、更なる無力を知らせる。論理が祈りに置き換わっていく。
何も見えない暗闇では知り得ない質感だった。苦しい。もう、眼を瞑っていたい。いつしかリストが言っていた、応答のない安心感が欲しい。何も見えない安心感が欲しい。
サロは未だ息のある論理に助けを求める。
僕らの生まれは、罪でも罰でもない。少なくともジーナの生まれは、その因果と無関係でよかったはずだ。こんな悩み方は、かわいそうじゃないか。
「ジーナ。もう僕のために生きなくてもいい」
サロは最後の最後で眼を閉じてしまった。
2-5
幻実(東雲兄妹)
警察に捜索願いを出してから半日後、ジーナが見つかった。サロには、ジーナの体が大丈夫なのか、外傷の有無すら分からなかった。既に最後のキャリブレーションから二週間が経っており、DiVARはほとんど使い物にならない。視野はぐちゃぐちゃな油絵のようだった。医師によれば、ジーナはただの栄養失調とのことらしい。
「なんで来たの」
点滴の管が、ジーナを逃さぬよう繋ぎ止めておくリードのように見えた。
「……あ、そっか。キャリブレーションしなきゃ、か。でしょ?」
「ジーナを助けたい」
「奇遇だね。私も。私は何を以て助かるんだろうね」
「ごめん、それは分からない。でも、そうしたい。今度は僕が助けるから」
「……なら結構です。兄は私に助けられてればいいの。ほら、おいで」
病室の窓から見える、京都の街並み。そこら中で異形の生き物が蠢いている。空は溶け出し、ビルの屋上から滴り落ちていく。街は汚れている。これは、失われた『2045年』の景色なのだろうか。もう、キャリブレーションはほとんど意味を成していない。
「うわ、何この街。世紀末じゃん。気持ち悪い」
ジーナにも、そう見えているようだった。
「うん。そうだね。気持ち悪い」
「……ごめん、兄。私HiPARなのかも。私で校正したら、兄もそうなるよ。もうやめようか」
京都駅の方向に佇む巨大な怪物が、この病室めがけて走ってきている。サロの心拍数が上がっていく。大丈夫、幻覚だ。あるいはARをつかったイタズラかもしれない。やつは、ここをすり抜けていく。作ったやつはすぐにKALMによって取り締まられることだろう。
――振動が伝わってくる。こんなタイミングで地震が起こるだろうか。点滴のスタンドが倒れる。ありえない。どこから夢だった? 今は夢の最中か? ジーナの入院は、ジーナの失踪は、DiVARの施術は?
この眼は今、一体何を見ている?
自分は結局、頭蓋の外を見たことなどなかったのか。
「ねえ兄。どうする、あいつ、本物だったら」
「僕が守る」
病室の壁が粉々に開かれると同時、サロはジーナを庇って覆いかぶさる。
澄んだ冬の外気と弱々しい斜陽が、割って入るようにして窮地の二人を包む。床が崩れる。空中を鉄筋コンクリートの破片とともに落ちていく。サロは半ば諦めていた。こんなの助かりっこない。
「東雲さん……? あの……ご兄妹、でしたよね」
「こら。再会に水を差すんじゃないよ。お兄さんがどれだけ心配していたことか。行くよ」
もう、僕らに見えているものは、誰にも見えていない。
僕らは一体、どこで何を見間違えたのだろう。
2-6
微睡
どうしていれば、サロは私を必要としてくれたのだろう。
ジーナは存在理由の縁に立ち、それを眺める。さながら、使い古して壊れてしまったお気に入りの玩具。重い眠気がジーナを襲う。
もう、飽きた。
別の玩具か、別の遊び方が必要だった。微睡む理性の隙をつき、殆ど初めて、自意識が操縦桿を握る。腕を牽いて玩具の先端に触れさせる。指が濡れる。やはりこの子はまだ可愛いし、まだ楽しめる。
「ねえ。兄。……泣いてる? 泣いてんの?」
「ごめん」
「許さないよ」
「ジーナ」
「許してあげない。じゃあね」