1:虚時間
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Direct-View AR
京都AL OSI-1.1 IDEAL に接続中…

何かが顔の前に貼り付いているのだと思った。

常に、膜のような何かが顔の前にある。手で触れても剥がせない。どうやらこれが『視野』という質感らしい。

初めのうち、東雲しののめサロはこれをどうしたらいいのか分からなかった。見たいものなら無数にあったはずが、今はそれどころではない。目を瞑っていても、『無』以外の色がぼんやりと見える。皆、邪魔に思わないのだろうか。

これは『文字』です。
再生中の音声と対応しています。

depth 0 相当の視覚補助を準備しています――0%

サロはDiVARディヴァの初回起動でお化けが見えるという噂を思い出した。恐怖感を煽るものが見えるらしい。しかし、この恐怖感は見える造形によるものではないと、サロは思う。恐怖を感じる色や形など、そもそもサロの経験にはない。どの造形が自分に害をもたらすのか、分からない。その意味で、眼に届く全ての光が恐怖の対象でもあった。

サロは未だ瞼を閉じている。起動から数時間は経っているはずだった。アサはいつ来るのだろう。ヨルの無音が突きつけるこの孤独感は、何を合図に引っ込めたらいいのだろう。合図があったとして、それをどう「正しいものを見ている」「皆と同じものを見ている」と判断すればいいのだろうか。

それを教えてくれるのは、肌を撫でる陽気、引っ張られる袖、ジーナの声。

「おはよう。いい夢見れた?」

Direct-View AR / 序
TAME - 1 / Imaginary Time

1-1
校正

――KALM 医療棟

DiVARの起動まで起きていられるよう、サロは考え事をしていた。

最初に見えるのは何だろう。
見えるとは、どのような質感だろうか。
「アカルイ」も「クライ」も「アオイ」も「アカイ」も、サロは知らない。
こういった語彙のほとんどは、サロにとって余剰次元の物差しに過ぎなかった。


サロはよく「五感のある人は『五次元人』であり、視覚の無い自分は『四次元人』である」と表現する。サロは『障害』関連の表現にかかる議論やその扱いづらさが嫌いだった。それらを思い出さずに済むよう、軽やかな、誰もが等しくおろそかに扱われる区別を求めていた。これは我ながらしっくり来る表現だった。

五次元人ジーナは、事あるごとに四次元人サロとの意思疎通――視覚から他四次元への射影を試みてくれた。
「シロは爆音、クロは無音。マブシイはうるさいってこと」
「……ホント?」
「個人的にはホント。アオはさらさらしてる、かな。寒色だから冷たくて、静かな感じもする。ミドリは穏やかで、森の匂い。アカは……リンゴっぽい。トマトかも」
「リンゴとトマト? 全然似てないじゃん」

『せつめいゲーム』『通訳』などと名前を変えつつ、幼少期から頻繁に交わされた会話。
のちに、これらには『校正キャリブレーション』という名前があることを知る。


「ジーナ。思ったんだけどさ、ジーナは五次元人どころじゃないと思うんだ」
「というのは?」
「キャリブレーションの時、ジーナの説明は概念的であることが多いんだ。つまり、『意味』って感覚の一つなんだよ」
「たしかに。じゃあ私は六次元人?」
「いいや。聴覚は音量・音高・定位3次元の計5次元で感じられる……と思う。触覚は――」

途中、ジーナは話を聞いていなかった。

「――で、これに『意味感覚』『時間感覚』の2つを足すと415。視覚は色と明るさと定位3次元で」
「分かった分かった。420次元人ね」
「……要は、差分の5を415で説明するのは大変だろうなって思って」

ジーナが異次元人サロの言葉を理解できないことは度々あったが、おおよそ何を思っているかの推測はできた。
「教えてあげる。それ、『いつもありがとう』の意味感覚1次元で説明できるの。話長いよ」
「次元を落として感情を伝えるのは好きじゃないんだよ。薄情に思えて……」
「思春期か、素直になるのが恥ずかしいだけ」
「そう、なのかな」

「……ま、よく伝わるキャリブレーションだったよ」


サロの好きな色(の意味感覚)はクロだった。
無音、無感覚の文脈で比較的イメージしやすく、そっとしておいてくれる印象。ジーナがよく着る服の色、らしい。
サロはジーナがくれる意味感覚が好きだった。それはサロにとっての百科事典であり、日記であり、ひっそりとしたためたまだ見ぬ外界へのラブレターであった。その語彙の多くは、外界からジーナを介して与えられた。

1-2
小さな孤独 - サロ

サロの人生の因果は、それ自体の長さでは説明がつかない。サロが視覚を持たずに生まれた理由は、およそ100年前まで遡る。

2045年、地球表面の三分の一が荒廃した。街が消え、人が消え、自然が消えた。原因はわからない。のちに『因果欠損』と呼ばれるこの年、人類は1年間の全ての記録と記憶を次の年に持ち越せなかった。
誰も2045年を覚えていない。その原因すらも、分からない。

以降、生物は脆くなってしまった。
平均寿命は低下の一途をたどり、生まれつき五感のいずれか、あるいはいくつかを持たない人が増えた。サロもその一人であった。


滅多に会わない両親のことを、サロは尊敬していた。
母親は国際AR連盟の重役であり、父親は加盟団体に所属する研究員である。両親の仕事には人類種としての大義があった。国際AR連盟の基本理念は『2045年の奪還』。消えた街並み、消えた五感、消えた記録、消えた現実。これらを技術で再現するためのARであった。
連盟の活躍が振るい、今では世界中で『ARのある生活』が当たり前となった。

2140年、因果欠損から100年が経とうとしている人類は未だ、置き忘れてきたものを取り戻すことに躍起になっている。
自分一人分の小さな孤独など、今はさして重要ではないと、サロは知っていた。
サロは思う。この孤独は、『何かを成し、何かを得ていく人生』の初期設定である。

1-3
小さな孤独 - ジーナ

サロが生まれた次の年、ジーナが生まれた。ジーナには五感があった。

滅多に会わない両親に対して、ジーナは感謝していた。
忙しいはずの母親が三編みを教えてくれた夜。幼少期のジーナに向けて穏やかに放った一言を、ジーナはずっと覚えている。

『あなたが、お兄ちゃんを助けるのよ』

どうやらこの人生には正解が在るらしい。
サロが救われていることこそが、あるべき状態だという。その如何いかんはジーナの人生の評定であり、これを満たすことは、いずれ彼女の支柱となる天命でもあった。ジーナはこれについて一切の疑問を抱かなかった。
これ以降、サロの生活の大部分はジーナによって支えられることとなった。


「ジーナ。明日はいいよ。毎日弁当作るのは大変だろうからって、先生が」
「へえ、その先生よくそんなこと言えるね。このあいだ給食で火傷したばっかじゃん、あに。先生のサポートが名ばかりだから」
「あれは、僕が間違っただけで」
「給食の皿の配置は?」
「……いつも同じにしてくれてる。ソフト部の顧問だし、もうすぐ大会なんだってさ。先生は……忙しい中よく見てくれてるよ。こういうことを承知でこの学校に行ってるんだし」
「それ、きつい。ちゃんと見てくれてるかどうかなんて分からな――」
「分からないよ。僕は何も」

「ごめん」
「……だから」
「ごめん」
「だから、助かってる。ありがとう」
「……とりあえず、明日は持ってくよ」

自分一人分の小さな孤独など、今はさして重要ではないと、ジーナは知っていた。
ジーナは思う。この孤独は、『何も奪われず、何も失わないようにする人生』の模範解答。

すなわち、この世界が二人分ほどに狭ければ、世界はそれで完全である。

1-4
幻視

サロが高校に通い始めた年、ジーナは世話を焼く時間を減らさざるを得なくなった。
中学では、上級生であるサロのクラスにも馴染むほどに付いて回ったが、この一年はそうはいかなかった。高校の正門より先で、サロは自由と不自由の両者に苛まれる。ジーナにしてみれば気が気でない一年、サロにとっては心細くも新鮮な一年だった。

昼は少食のサロ。食べこぼしリスクの低さや後処理の手軽さから、おにぎりと完全栄養食の塊を一つずつ食べる。昼休みの残りは暇になる。やることといえば、妄想か、考え事か、点字ディスプレイでそれらをメモすることだった。

「東雲君。暇?」
「考え事してる。主人公の服の色はどれがいいかなって」
「色、分かるんだっけ?」
「見たことないけど、聞いたことはある。似た質感だけ知ってる」

数えるほどはいた友人の中でも、サロは芝原リストという女子と話すことが多かった。リストは16歳にして多くの依頼を受けるイラストレーターであった。昼休みは専ら、サロの隣の席で作業をしている。自分の絵を見ることのできないサロのそばでは、気楽に作業することができた。

「ARシェード、だっけ。それ使えば隠せるんじゃなかった?」
「物理デバイスで描いてるから、ARオフにすれば普通に見えちゃうんだ。だから東雲君の隣で描いてる」
「へー。描いてるところを見られるの、そんなに嫌?」
「見られるのは平気。見た人のリアクションに対する正しいリアクションを私は知らないの。盗み見てくれるならいい」
「ふーん。そういうもんかな。応答がないことは不安じゃない?」

しばし考えるリスト。

「むしろ安心する。応答が未来の不安を呼ぶの。東雲君もそういうとき、あるでしょ? 近くで知らない音が鳴ったりとか、すぐそばを車が猛スピードで通ったりだとか」
「ある……かも」
「描くことだけは未だに――私、あんまり悩まない性格なんだけど――どう思えばいいか分からない。描けることに感謝はしてる。でもその裏で、こんなに利己的で曖昧なものを仕事にしてしまった原罪を、ずっと背負い続けるの。自由って、みんなが思ってるよりも怖いことなんだよ。どう思う?」
「自分のやりたいことだろ、って周りから言われる?」
「かもね。そして私はその意見が正しいことを知ってる。この仕事は、見てくれる人がいなければ成り立たない。だから、感謝で割り切る……フリをしてる……のかもしれない。たぶん隠してたほうがいい」
「答えはなさそうだった?」
「仕事ってそういうもんよ……なんてね。面白かった?」
「まあ、爆笑しそう」

「東雲君は、何になりたいの?」
「なりたいものなんて無いよ。やりたいことが増えてくだけ」
「……そう」
「名前という箱じゃなく、中身の質感が知りたいんだ。そうじゃないと僕には何も分からない。僕は僕が何者であるかに興味がない。『大人気イラストレーター』って呼称は、イマイチそそられないね」
「ふーん。東雲君、自己肯定感高いね」
「そう、かもね。そういう尺度や評価は結果だから、それも興味ないかも」
「……ハハ。人生二回目? ……何をやるか、ね。それでいいのかな」
「いいんじゃない? 自由から身を隠す方法を考えるより、やって楽しい考え事は他にいくらでもあるよ」
「……なら、その妄想黒歴史メモを見せな」
「芝原、点字読めるんだっけ?」

高校時代、二人はいくつかの本を作って遊んだ。サロが暇つぶしに考えていた物語は、リストの絵によって色と形を得ることとなった。サロは視覚に対する強い憧れを抱くようになった。作った本を、リストの描いた絵を、自分の眼で見てみたくなった。


「ジーナは何になりたい?」
「なりたいものなんて無いよ。私は私で十分」
「そっか。よかった。血は争えないね」

この会話の齟齬に、兄妹はまだ気がつかなかった。

1-5
DiVAR

もう、ヨルだろうか。
迫り来るビッグバンの轟音からその耳を守るように、今は小さな不都合を気にしている。

手術当日。光を知らないサロにとって、今日のヨルを感知することは難しかった。
サロの中では、『身体感覚が侘しく、暇になること』あるいは『ジーナがシャワーを急かすこと』すなわちヨルの始まりであった。
この病室ではどちらも未だ起きていない。ただ重い頭を枕に預けて、室内に漂う他人の会話に耳を貸している。小声で現在時刻を訊ねる。音声アシスタントが告げる数字からは、ヨルの質感までは得られない。
今は、情報よりも身体感覚が欲しかった。

この日の24時、サロは初めての視覚を経験する。
直視型拡張現実――一般に『DiVARディヴァ』と呼ばれるそれは、主に視覚に障害のある人向けに開発された感覚補助システムである。脳に終端装置を埋め込み、街全体の3Dマッピングデータを大脳へ直接入力する。技術の系譜はARよりもVRに近いが、現実の再現を目的とすることから、正式名称を『Direct-View AR』という。
その名の通り、直に見えるAR。
未だ施術の例は少なく、『描画信頼性の低さ』『突如の停止』『幻視の頻発』など、デマを含む是非の議論が続いている。サロはリスクを承知でこの施術を受けることにしたが、ジーナはこれに反対していた。それは友人も同じで、何か見せたくないものがあるかのようにサロは感じた。賛成したのは、月に一度も家に帰らない両親だけだった。


寝返りを打つと、思考の線が途切れる。DiVARは身近な五次元人とのキャリブレーション無しには使いものにならない。ここにきて、サロはジーナに黙って施術を受けたのは悪手だったと後悔する。

「キャリブレーションのお相手は、東雲ジーナさん――妹さんですね。まだ来られないんですか?」
「えっと……たぶん来ないと思います。キャリブレーションは自宅でもできますよね?」
「ええ、まあ。ですが、代理でどなたかお呼びいただくことをおすすめします。未調整では何が見えるか分かったものじゃない」

「友人でもいいですか?」
「ええ……本来は、DiVARの初回起動に立ち会うのは2親等内が望ましいんですが」
「ならやっぱり、帰ってから調整するので大丈夫です。どうせしばらくの間、眼をあけたりしないので」

「かしこまりました。では予定通り、大脳補助ニューロンは本日24時に起動します。痛み、しびれ、幻視症状、その他視野の異変などありましたら、呼び出しボタンでお知らせください。術後数時間以内の副反応症状が報告されていますので、明日の正午まではこちらで安静にしてお待ちください」

看護師が仕切りカーテンをゆっくりと開く。
配慮によって時間的に引き伸ばされる、耳障りな金属音。

サロは思う。幻視症状こそ、望んだ反応である。

TAME - 虚時間

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