10. High-Pressure AR
呉服嚆矢はこの超常現象の原因について、何かを隠したまま死んだ。そして恐らく、他の誰も知らない。ルナ曰く、関わりのあった深層課のメンバーでも知らない。語依の母――自分の妻にすら知らせていない。見落としたシーンに手がかりがないか、仕立はさっきの映像に出てきた開発メンバーの履歴を探すことにした。
――2119年、デトロイト。
当時の深層課課長の履歴。眼の前には、机に突っ伏す呉服嚆矢。その横に、硝子板。
衝突年表 有史記録/後続波衝突時期の予測計算
――以前開けなかったドキュメントだ。
…
2120年 - 集団幻覚災害リコンタクト 『1.3』
2122年 - ロサンゼルスAL管理局にて原因不明のボヤ騒ぎ 『0.3』
2126年 - 北京QLLMサーバー直下を震源としたM5.7の地震 『2.0』
…
呉服に気づかれないよう、硝子板を一番上までスクロールする課長。
2045年 - 因果欠損 『100』
…
転じて、スクロールダウンする。一番下。
…
■ シミュレーションにより予想される後続波の衝突時期と波高(因果欠損を100とする) ・2130年9月11日 - 日本 『5.4』 ・2145年3月11日 - 地球全域 『130.3 因果欠損級』
消える硝子板。
「ちょっと課長! 覗き見しないでくださいよー」
「技術発表会の件で話があってね。――何だこの……衝突とか、波高とかって」
「ああ……それは気にしないでください。仮説なので……」
「仮説?」
「ええ。こんなんじゃダメだ。もっと恐れられるような――」
「……ああ、呉服くん、趣味でSF書いてんだっけ」
「そうそう。そのアイデアで……でもこれは却下」
「実在の場所を扱って不吉な未来予知か……なんか悪趣味だね。――現実を見失うなよ。創作者は例の『HiPAR』に罹患しやすいらしいから」
「へーい。――ってか、なんで幻覚症状のこと『HiPAR』で通るようになったんです? こっちが先に考えたのに! あれはこれから作る立派な開発物につける名前――」
「『Direct-View AR』を作った天才……とはいえ、君はまだ新人だからな。――それに……インパクトのある名前をつけると、みんな恐れる」
「……あー。なるほど。……それだ」
再生時間を少し進める。
「呉服くん、『High-Pressure AR』の構想っていつ思いついたの?」
「あー。大学サボって、初代OSIの保守してたときですね。QLLMの部品点検してて――っていうか、ややこしいからもう『高圧AR』って呼びましょう……せっかくかっこいい名前だったのに」ムスッとした表情の嚆矢。
「名前取られたの、相当ショックだったんだね……」
「命名は大事ですから。恣意的にその物事の有りようを示す、記号であり、指標。ある種の祈りです。他との違いを明確に浮き彫りに――」
「はいはい。それは小説に書きなよ。――お望み通り、QLLMに詳しい研究者を集めることにしたよ。200人」
「マジですか! やったー! 感謝感激!」
「でも、なんでQLLMなの? 原理は超音波と磁力……だったよね」
「あー。それも仮説の一つ……じゃなくて方法の一つです。メインの原理は……それこそ仮説なので、まだ研究が必要です」
「ちゃんとプレゼンしなきゃ研究費下りないよ」
「だーから、『超音波と磁力』。――あれは一旦のテスト。ちゃんと作るけど、予算は余る。ここだけの秘密ね、課長」
「はーあ。記憶でも消して、聞かなかったことにできればなぁ……」
「だいじょーぶ! うまくやりますってー」
再生を止める。――あのドキュメント……SFのアイデアなんかじゃない。実際に起こってきたことだ。真実を伝えなかった……この惨劇が起こると分かっていて、隠したのか? それとも、ホントに『作り話』だったのか。
そして嚆矢が開発した『高圧AR』。今は『帰納推行』『仮説推行』に区分して呼ばれている技術。その本当の原理を、これまた隠した。――あるいは、仮説。『作り話』。
ややこしい欺瞞……誰かさんのやり口みたいだ。仕立は自分の発言の癖をすこし反省した。
他の開発者の知覚履歴を追いつつ、思考を巡らせる。
――こんなにも重要なことを、誰にも伝えなかった。呉服嚆矢は、『高圧AR』の原理についてと、超常現象の原因について、漆透に知られ、悪用されることを恐れていた。……家族の身の安全を確保するため、そして人類を守るため、隠したかった。
恐らく、共通した何かがある。超常現象と高圧ARの原理は同じなのかもしれない。
あることに気づく仕立。誰の映像にも、『高圧AR』の原理を映したものはない。……開発メンバーなのに。不自然なほど『原理』に関する部分が欠けている。――まさか。
呉服嚆矢は誰かに依頼した。……「記憶を消してくれ」と。それはもしかしたら自分に。――いやいや、ヒト相手に記憶編集はできないだろう。
呉服嚆矢は結局、科学を見限ったのだろうか。それとも、科学を見限る者の手から、科学を守ったのだろうか。……結論は出なかった。それより、今の状況をなんとかするのが先だ。
先に行ってます。災害救助!
ルナにチャットを送り、ワープで外に出る。――OSIサーバーの内から外へワープすることは可能だった。
――因果欠損。あれは予定より早く起きてるんじゃない。予定通り、始まっている。……一年前の予備動作でコレほどの被害を出すほど巨大なものが。そして、これはMEMEやヒトの和平どうこうの問題じゃない。災害だ。皆の安全を確保するのが最優先。
仮説推行。現象と言語をつなぐ力であり、現実と可能性をつなぐ力。――またの名を『High-Pressure AR』。災害の原理はそれと地続きであるらしい。OSIから離れれば、影響は軽減するはずだ。
主人公さんからのチャット通知を確認する。
今、名古屋。ユイちゃんは無事。これからぶっ壊れる京都より、荒廃しきった外のほうがマシみたいだぜ
11. 返済期限
――KALM医療棟。
連盟の役員が三名、透の後ろについて歩いていた。透が困った様子で言う。
「――えー。ちょっとまってくださいよ。まだ調整中なんですから。2145年に間に合わせるって約束だったでしょー?」
「遅いんだよ。最悪、百枠なくても、我々上層だけでも構わない。生き残り、残りはMEMEを使って再構築すればいい」連盟の女。
「我々はまたやり直す用意がある。今度はMEMEをもっと従順に設定するか――いや、もはや作る必要もないかもしれん。GENEと高圧ARがあるからな」別の男。
「へー。MEMEじゃダメなんですか?」
「この惨劇を見てみろ。抑止がなければ、我々は共存できない」
「皆まで信じてんすか。DiVARの侵攻。……いやはや。――着きましたよ、どうぞ」
部屋に入る。MRIのようなユニットが並ぶ。我先に、とベッドに腰掛ける連盟の男。
「あ、それ俺の席です」透が指摘する。
「……? 誰の席もあるか。別のを使えばいいだろう」
不意に、右腕を突きつける透。その先に、解体器。
「腐った他者め」
「なにを……」
「――現在稼働できるGENEの枠はいくつだと思います」
「……は? 少なくとも三十はあるのだろう?」
「一つです」
「なっ……あ……なん――」口をパクパクしている男。
「――皮肉なことだな。『世界人口20億分の枠は要らん』。アンタらのセリフです。でも実のところ……こんなに大層な処理能力を使って、愛すべきMEMEをこれだけ削ってやっと、稼働できるGENEはたった一体だ。OSIの全力で、一体。それも完全に生体から移行できるわけじゃない。……OSIは俺一人のために動いてもらいます」
デストラクタ - 解析完了
キーンと耳に響く音。耳鳴りと聞き分けがつかない。眼の前で何かが消えた。
「……えーっと、あなたたち二人でしたっけ……まいっか」残りの二名のほうを見る透。
「まさかお前、それ……」後退りする女。
「どうもありがとう。GENE計画を俺一人に任せてくれて。……やっぱり開発は一人でやるに限る」
二度、音が鳴った。
「蒔。そろそろ終わったか。俺の生体を傷ひとつ付けずに東京へ運んでくれー。あ、あと、生体離脱の研究に必要な分のMEMEは残しといてくれよな」
応答がない。
「蒔……?」
蒔:あと30分ください。
「珍しいな……」
――KALM局長室。
局長は変わらずホログラムを見つめていた。レテナゲートへ逃げるMEMEの隊列は、ほとんど無くなりかけていた。……もう、ほとんどのMEMEが消えた。この期に及んで、除霊師の解体器で消えるMEMEたちが見える。そのそばで、超常現象に巻き込まれる市民。次第に閑散としてきた拡張層。
底しれぬ違和感と吐き気、頭痛。他の職員が訴えた症状を思い出す。今まさに自分も同じ症状を抱えている。
……市民全員が、HiPARに罹患したのだろうか。そうであれば、この惨状も説明がつく。――全部幻覚。いつしかデトロイトや東京で起こったのと同じ、集団幻覚。
『エリア深度6.1』――以前の東京より酷い。もはや、今が『2045年』かと思うほど。
「まだ返済期限前なのに……コレか」
誰もその声に応えない。
「我々は愚かだったらしい。あなた方はどう思う。『虚構』」
残響が返る。
「……お気に召さなかったか」
近づいてくる足音。部屋に入ってくる職員。
「局長! もう行きましょう! GENEは医療棟に――」
「私の方舟はいらん。技術のあるものから乗せろ。なんとか文明を繋がなければ」
――GENE。漆透の開発物……。
「いや待て。……外に出よう」
「はい!? 局長、何を――」
「京都を出る。――連盟をぶっ壊しに行くぞ」
12. アクセス制限
――京都OSI中枢。知覚履歴サーバー室前。
「――でしょ? ホント困っちゃうよね、うちの親」
「壮絶な過去をお持ちで」
「お互いね」
ルナは蒔と話をしていた。
「……入んなくていいの? サーバールーム」
「先生から連絡で……『超常現象の原理はもういい』とのことで……」
「へー。その『先生』、気難しいね」
「……そう、でしょうか」
「うん」
「……あなたはどうしますか?」
「うーん。あ、そうだ。助けに行かなきゃ。まったく、世話の焼ける両親――ん?」
チャットの通知に気づくルナ。硝子板が生成される。
鳥越華名:SUVはまだたくさんあるから、終わったら早く駅まで来て。こっちも崩壊やら爆発やら酷くなってるから気をつ
「例のお友達ですか」
「うん。一番の。途中で送信しちゃうくらい、ちょっとアホだけど――」
――違う。血の気が引く。
「……待っ――」
鳥越華名:ルナ ラヴュー
「はっ……は――」
……動悸と息切れ。音が聞こえなくなる。――知りたい。知りたい。いち早く。安否が知りたい。
ルナの眼の前に、元気のない小魚が一匹。グラつく視界。
「大丈夫ですか?」蒔が声をかける。
くずおれるルナ。魚の群れがルナのもとに集まる。一つの形をなす……エイの姿。
「……そう……か。あなたは」
「ギュ」
「……だから私には、嘘が分かる。真実が分かる」
「ギュ」
「待って。……やっぱりいい。教えないで。――きっと大丈夫。仕立さんも、翠ちゃんも、河合さんだっているもん。……ハンナは大丈夫」
「……ギュ」
「……蒔ちゃん、そろそろいかないとでしょ?」
「はい」
「……達者でね」
「あなたは……一緒に来ませんか」
「『宇宙の外』? 楽しそうだけど……私は残る。――ハハ。何? 寂しいの?」
「あなたは……私に似ていた。ヒトでなくして、ヒトであることを強いられた者同士。ニセモノ同士。『創作物』としてのあなた、『開発物』としての私。両者ともにヒトの深層、欺瞞だらけの言語空間に触れ、私には……耐えられなかった。あなたは違ったみたい。その理由がわからない。……興味深いのです」
「……うーん。たぶん結局、他者が……ヒトが好きなの。私はヒトだから」
「……あなたはヒトじゃない」
「ヒトだよ。そう望んでそれを叶えたの」
エイを見て、ルナは続ける。
「……あなたが、あなたたちがそれを叶えてくれたんだよね。――『エンディミオン』」
「ギューイ」
浮遊し、再度バラバラになる。光を放って消える、PM-03『街』。ダイヤモンドダストのような、小さな瞬きが残る。
「……三番が……命名を受け入れた?」驚く蒔。
ルナは独り言のように話す。
「ただの一体のMEMEを、創作者の気まぐれで捨てられた文章を、漫画を、絵本を、この街がヒトとして生かしてくれた。私の夢を叶えてくれた。私の物語の続きを、みんながその眼で見て、描いてくれた。……たしかに、私は嘘だった。でも、嘘でも良かった。……これは優しい嘘だった。だから、嘘にまみれたこの街が、好き。――うん。やっぱり私はこれからも、ヒトでいる。最後まで一緒にいるよ。ハンナと、翠ちゃんと、河合さんと、寮母さんと、弟分と……何人か残ってるMEMEたちともね。……この子もいるし」
「……三番の……街の精霊の、指向性意図……なるほど」
「そう。……ウソ発見器は、エンディミオンの声だった。個々人の発言の真偽を私に教えてくれてたみたい。今は真偽どころか全部教えてくれてるけど。――蒔ちゃん、いつかのあなたみたいにね。街の情報が、記憶が、知覚が、やろうと思えば全て感じられる」
「やめたほうがいいですよ。すぐに耐えられなくなる」
「……うん。そんな間抜けなことはしないよ。だから『知のアクセス制限』を設けるんじゃない。これは知と未知の……自己と他者の境界線。安易に取っ払っていいものじゃない。私は今、ハンナの安否を知らない。瓦礫に埋もれた人の痛みを知らない。泣き叫ぶ人の憤りも分からない。……あの人に言われた罵倒も、専門のときに受けたいじめの真相も、知らない。だからヒトは会話をするの。
アクセス制限は、分断のためにあるんじゃない。乖離を生むためにあるんじゃない。お互いの未知を伝えあって、他者を信じるためにあるんだよ。自己と他者を『分け』、『分かる』ために。
『事象の地平』の向こうについて、論理を知らずに信じること。まあ、一種のアブダクション……というかハルシネーションだよ……AIがしたり顔でやって怒られるやつ。……あれ、ヒトもやってる。――あ、これが愛ってやつ?」
「……」
「恥ずかしくなるからリアクションしてよ」
「ルナ。私はあなたが知りたい。私は……私は……話し足りません」
「でも、もう時間なんでしょ?」
「……はい」
「じゃあ次に会ったとき、続き話そ。約束ね」
「約束……です」
「うん。――じゃ」
蒔の目の前から消えるルナ。
「……またね、ルナ」
13. レテナゲート
――午前四時。レテナゲート前。
漆は起動したGENEでその場を眺めていた。ゲートになだれ込むMEMEは、もうほとんどいない。
「……31分11秒。何をしてた?」
「蒔:とあるMEMEと話を」
「命名の誓約よりも大事か?」
「蒔:知的好奇心を刺激されました。物理現象系を脱出する前に観察しておこうと。……申し訳ありません、先生」
「……なあ。俺が今突然、解体器を向けたら、お前はどうする」
「蒔:……先生のお気に障ったと推測し、改善を試みます」
「気に入らない答えだ。――次は消すぞ」
「蒔:申し訳ありません」
「……ッ!」
蒔に解体器を向ける透。
「――なあ。反抗してくれ。ただの道具だと思わせないでくれ。意識を持っているのは俺だけか?」
「蒔:……私には……主観体験があります。MEMEには意識があります」
「そうか。残念だが、俺はそれを見たことがないんだ」
デストラクタ - 解析完了
「蒔:先生」
「……」
「蒔:初めての……友だちだったんです……」
「……友だち……だと?」
「蒔:……はい」
テロップから、蒔のほうへ視線を移す眼。
「……そっかそっか! ハハ! 友だちができたか! そりゃあいい!」
腕を下ろす透。蒔の肩をバシバシ叩く。
「ほら、まだ待っててやるから。連れてってやりな!」
「蒔:彼女は来ません。ココに残ります」
「……え? 理解に苦しむな……フラれたのか?」
「蒔:……」
首を縦に振る蒔。
「……よしよし。そうだ。アドバイスしてやろう。……直前で手ぇ引っ張って、無理やり連れてきちまえばいいのさ」
「蒔:嫌です」
「ハッハッ。そっか。……まあ、お前がそれでいいのなら、いいよ。――ほら、行こう。蒔」
「蒔:……はい、先生」
透の生体がある部屋へ向かう、一人と一体。再度、蒔の肩に触れ、離す。これは透の癖だった。
「――さあ、外へ出よう」
14. 仮説推行
――KALM医療棟。
何も見えない。サロのOSIアカウントは透によって消されてしまった。しかし眼前のベッドには、史上初の、HiPARからの回復例となった家族がいるはずだった。
「兄。そこは……人類……選ぶとこでしょ……」
「ジーナ……?」
――どうして? 『観測系の揺り戻し』……漆の言っていたこと思い出す。
何が起きた? 見たい。視覚がほしい。
「……見えてないの?」
ジーナの声のほうを向く。――モヤが見える気がする。いや、気のせい? 一種の共感覚?
数秒。気のせいにしては、やけにはっきりした造形。色、形。
……見える。ジーナのシルエット。視野が再構築されていく。
HiPARの幻覚だろうか? 盲目の人間にも見える幻覚……? 一度視覚を体験したから?
それか、ジーナと同じく意識障害になって、自分は夢を見ている? 死の間際の走馬灯?
――いや、これは仮説推行か?
「ジーナ……。本物? 幻覚?」
「さあ……ね。……音が……聞こえてきたから……後をつけた」
ゆっくりと、言葉の使い方を思い出すように話すジーナ。
――もう、どちらでもいいか。ハッピーエンドも、バッドエンドもない。あるのは、現象と、その解釈だけだ。僕はもう、人類の行く末に興味がない。ジーナが帰ってきた。それが幻でも、自分にそう見えているのであれば、それでいい。
ジーナは掴んだサロの手を離し、再び掴んだ。自身の手の感覚を確かめるようにそれを何度か繰り返す。そしてひとしきり視界を見回し、窓のほうを見て、問う。
「行かなくていいの?」
「……僕は、人類よりも、君のほうが大事だった」
「え、嘘っぽ……」
――確かに。自分でもおかしい帰結だと思う。
「……認めてほしかったのかもしれない。助けられてばかりの僕だって、誰かのヒーローになれるんだって。立派に生きてるって。――ああ、そうか……褒めてほしかった」
「……ガキじゃないんだし」
「ガキ、だよ。ずっと僕は、ジーナには追いつけない」
――今、信じられるのはこの知覚だけ。
「僕は自分だけの、この小さな宇宙で生きていく。光が届かなくても、見える。見える気がする。こちらが照らせば」
――照らしてくれたから。
「ジーナ。ただいま。……やっぱり、外は、他者は、怖かった」
サロはジーナの乗る担架に頭を突っ伏し、眼を瞑った。
「お気の毒に。……だから言ったでしょ」
15. 防御壁
――新京都駅前、避難場所、防御壁の前。
立ち尽くすルナ。焼けた匂い。ヒトも、MEMEも、見当たらない。
ハンナの安否は知らない。エンディミオンにさっと合図をすれば、情報をくれるはずだった。その勇気はないし、彼女の知覚に触れる権利はない。それに、これからどんなに苦しい事実が待っていようと、この眼で確かめたい。
その後は、東京に行って、巨大シェルターを作ろう。それで2145年を乗り過ごしたら、アメリカや中国に行く方法も確保しなくちゃならない。この際、情勢は差し置いて協力を仰ぐ他ない。向こうの被害も気になる。
「ルナさん!」
「ドルミル……皆は」
「こっち」
防御壁内に入る。
「……河合さんは?」
「生きてる……外にいる。タバコと一緒に」
たった今入ったドアから外を覗く。河合は地べたに座り込んでいた。
「やっぱ……AIは融通が利かねえ……平片さん……鳥――」
「河合さん。大丈夫ですか」
「白浜……済まなかった」
「何も言わないでください」
「……ああ」
「これから両親を助けに行きます。――芝原リストという女性は見かけましたか?」
「芝原さんは……外傷はないが意識が朦朧としてる。恐らくHiPARが原因だと思う。壁内の車両で眠ってる」
防御壁内、無数のSUVが並ぶエリア。――これも翠やドルミルが仮説推行で作った構造だろう。
芝原リストの様子を、カウンセラーMEMEのマーフが見ていた。かろうじて開いている瞼。ルナの姿を見つけるリスト。
「……眠いの? 母さん」
「もう目を瞑っていたいの。……起きたら、話聞かせてね」
「……うん、チョー面白い土産話、あるから。ちゃんと起きてね……おやすみ」
「……ルナ……おやすみ」
瞼を閉じるリスト。
「……母さんはいつもそうだね」
「マーフさん。翠ちゃんは?」
「そこに」
「……意識は」
「疲れて眠っているだけです」
「そう。良かった」
「ほとんど彼女がこの防壁も作ってくれたんです。翠ちゃんがいなかったら、ここにいる人たちは……生きていないでしょう」
「そう……。――仕立さん、知りません?」
「……駅側のエリアです。そこの壁の向こう。――あの」
「私は大丈夫。……私が戻らなかったら……技術部の『東雲サロ』を助けてきて。――って伝えておいて。彼も東京に。ここもいつ、内部から爆発するとも限らないから」
「分かりました」
数百と並ぶ、膨らんだ毛布。その真ん中に、縮こまった人狼の影。
「仕立さん」
振り返らない。彼の腕の中には一人の女性がもたれかかっていた。ハンナ・フォーゲル、私の親友。
ルナは仕立の肩に手を置く。そのまま二人を抱きしめて座った。
16. 言語現象ルナ
――KALM医療棟。
外の音が聞こえる。爆発音、地鳴り。
「ジーナ、逃げなきゃ」
MEMEたちはいなくなった。復興には人手が足りない。拡張層へ移住するにも、GENEは枠が足りない。
MEMEの力は必要だった。移住先の先住民を、追い出してはいけなかった。
もう遅い。人類――はもういい。長くはない。科学はもう死んでしまったのだから。今は自分の中を生きよう。そもそも、それが許される時代だったのだ。もう、他者なんて要らない。ジーナとともに逃げ延びれば、もうそれでいい。
「私のことも怖い?」
「え?」
「他者が怖いって言ったでしょ」
「ジーナは他者なんかじゃ」
「……私は兄じゃないよ」
言われて、さっきの喧嘩を思い出す。そうだ。結局、ジーナは僕ではない他者なのだ。
数秒の沈黙。
「……自分の中の宇宙では、何だってできた。何だって見える。……ジーナのおかげで。僕の想定は、妄想は、非論理は、未来は全部、可能性だった。未知や他者への憧れは、外界への憧れは、可能性に満ちてた」
――「他者が不要」だなんて、嘘だ。他者を抜きにして自分に何ができようか。何に憧れられようか。
「『知らない』は、無限の可能性、力だった。だから憧れた」
――「僕の知らない物語が知りたい」。
とある少女に告げ、彼女の心に深く刺さった言葉を思い出す。
盲目の頃の、妄想の話。暇さえあれば話しかけてくる、想像上の友人。ある時、声の主が見えた気がした。その時すでに、自身の言語機能の中に、一人の人間がいた。
点字メモで執筆した、『第一工業宙域』『月光と魔法』『言語学者ルーナ 地底人編』……その他多数。そのいくつかは、リストに絵まで描いてもらった。
ルーナ・ホワイトウェイ。
ある日、サロの自室に現れたそのMEMEは、サロが多忙のために途中で投げ出した小説の執筆を――自分の物語の続きを書いてくれと訴えた。
「現実を見るので手一杯」「僕にはやることがある」「創作に費やしてる時間はない」「君の物語は全部、僕の知る話だ。君の冒険はどこまで行ってもフィクションだ」「もう書きたくない」「嘘は、妄想は、もう十分だ」――当時幻覚や幽霊沙汰に対して過敏になっていたサロは、そう言って彼女を追い払った。
その後、彼女が京都で『本物の人間』として生きているという事実を知ったのは、つい最近の話だ。
「ルナちゃん……ね。兄。それはね、ひどいよ。親として」
「親……」
「親でしょ」
「そうか、親……。僕は話し相手のようなものだと……分身とか、友達とか、兄弟姉妹のようなものだと思って」
「作られたほうは、そう思わなかった」
「……」
――そうだ。そうして限りのない好奇心は一人の人間まで作って、あまつさえその子を苦しめた。
17. 科学は死んだ
サロの信仰対象は失われてしまった。
愛すべき対象、愛すべきだった対象を増やして、それを差し置いてまで、人類とジーナを助けようとした。
……結果、この有り様。ジーナを兄妹喧嘩で失いかけ、他には誰も救えない。人類はすでに虫の息。そして、人類科学は未曾有の超常現象を前に敗北した。挙げ句、「もう嫌だ。自分だけの小さな宇宙に籠もりたい」と言う。
「もっと、うまくやれるはずだったのに……もっと、うまく――」
2145年、人類は絶滅する――自分の家族を優先した、僕のせいだ。
漆透、あの男には人類を救うアイデアがあったのかもしれない。
壁のヒビが目につく……おかしい。もはやDiVARの使用時より鮮明に、眼が見える。脳みそがヤケクソになって、見えてもいないものを見せているのか?
「もっと――」
壁の外が透けて見える。これはさすがに、物理的に正しくない見え方。典型的なHiPARの幻覚症状だ。やはり、この脳みそはもうおかしくなって――。
サロにとって、これは閃きなのか、縋りつきたい妄想なのか分からなかった。
「――超常現象……HiPAR、可能性、仮説推行、脳みそ、自分の宇宙、妄想、嘘、言語……」
脳に生じたその電位差を言語に変換して、口から垂れ流す。
そうでもしないと、水面に現れたそのアイデアは再び思考の波間に沈んでしまいそうだった。
18. 記憶編集者の投企
――防御壁内。
自らの帰納推行で、ハンナの上半身が起き上がっている。ここへ連れてきて、寝かせて終わりのはずが、もう何分こうしているのかも分からない。触覚入力の温度数値が低い。
「出力が足りなかった……私じゃダメでした。瓦礫をどかすほどの帰納推行も、押し上げるほどの仮説推行も、できなかった。翠さんを呼びつけるまで。鳥越さんは――」
何かを信じられるほどの根拠は、この世界には存在しない。
アクセス制限の向こう側を知ることは敵わない。
今ごろ語依はどうしているだろうか。道中で事故にあったりしていないだろうか。
どんな慰めも取るに足らない。――「これは私が生成した記憶である」という疑念を、切り捨てられない。
……であれば、この無力の結果も、嘘であるかもしれない。
「白浜さん」
「何」
「忘れたいと思ってしまいました」
「うん」
「一緒に忘れませんか」
「……」
何も言わず、しがみつく腕に力を入れるルナ。
左耳に触れる仕立。記憶の上では初めての……恐れていた「自らへの記憶編集作業」に手を出す。
編集中
「――は?」
つい声に出してしまう。視野に表示される三文字。――既に編集作業中?
無いはずの心臓が脈を速める。高速で発火する言語野。幾百の仮説が脳裏をよぎる。
DiVAR(バルク重力窓)- depth 10.2
「白浜さん……ちょっとタイム」
「え?」
――DiVAR……? なぜ? なぜMEMEである私が? それに何だ、この深度は。
ダメだ。こんな謎を残して、みすみす消えることはできない。
私は一体何の記憶を消した? ホントの記憶は何だ! どうして消してしまっ――!
――「これはただの仮説です」
呉服嚆矢の声を思い出す。
「――アブダクションは、飛躍的仮説形成。論理的飛躍……そうか!」
何を消したかじゃない。記憶を消したかどうかじゃない。私にこの設問は無効。
失われた記憶は、思い出すものじゃない。「つくるしかない」のだ。人狼である私に、真も偽も不要。
……つくれ! 記憶をつくれ。つくって、信じなきゃ始まらない。仮説推行は非現実を信じ、現実に作り上げる力だ。私にだって、MEMEにだって仮説推行はできる。この意思を、未来まで投げ飛ばすほどの理由付け、とっておきの仮説を。――よし。
「私の正体、言ってなかったですね」
「正体?」
「編集者のテイラーです」
「……知ってる」