11|百鬼夜行
11|百鬼夜行

11|百鬼夜行

6

6

「はい。これにて『情報熱力学』と『量子重力』補修は終了でーす」

教壇に立つ女性が間の抜けた様子で告げる。

「……もうそんな時間か」
「明日の追試は遅れないように。赤点は再追試です」
「そうなったらまた補修?」
「いえ。補修はもう終わりです。自力でパスしてください。その次はありません」
「……」
「大丈夫」
「何が」
「私がいる」
「……カンニング手伝ってくれるの?」
「応援だけしてあげる」
「それだけ?」
「それだけ」
「……一問くらい教えてくれても」
「なら不合格」

床が抜ける。


――世界が首に落ちてきたようで、上半身をひねって飛び上がる。

「……ッ!」
「うわ、びっくり。――何……お漏らしの夢?」
「……事故って崖に落ちる夢」
「生還おめでとう」

体にまとう毛布を退け、運転席を向く。ジェンは机に突っ伏すようにしてハンドルにしがみついていた。フロントガラスの向こうをぼんやりと眺めている。

「……やっぱり、行きの時と違ってないか?」運転手に尋ねるサロ。
「ですねー。……たぶん地形ごと変わってます。さっきの分岐、行きは無かったはず」

出発して二日半、滋賀に入ってからというもの、車窓の景色は違和感を増していた。舗装ほそうされているはずの道が陥没していたり、土砂で塞がれていたりする。道の真ん中に妙に幾何学的な形の岩が置かれていることもあった。その様子は、東京の深層で見た風景、オブジェクトとどこか似た雰囲気があった。

  
-Current depth-  
4.0  

「エリア深度、悪化してますね。連絡にあった通り」
「……こんな様子じゃ、現実逃避もしたくなる」

硝子板に触れ、通知を確認する。新しい連絡はない。
KALM医療棟から最後にもらった連絡によれば、入院患者は無事とのことだった。それでも、サロの焦燥は収まらない。いち早く、ジーナの安否と街の様子をこの眼で確かめたかった。

「ログアウト障害も……ひょっとしたら、『ログアウトできないかも』っていう思い込みのせいだったりして」

数時間前の連絡で知った話。現在、京都OSIに接続したアカウントがログアウトできなくなっている。ユーザーの操作ではログアウトできず、グラスやコンタクトを外そうとすると『筋収縮干渉』の機能により阻止されるとのことだった。市民の間では、これもMEMEのしわざだとされている。


「大雪降ったら、追試延期になったり――」
「しません」


京都の玄関口はすでに避難する車両と人々で溢れかえっていた。街を出たところで行く宛はなく、周辺で夜を過ごし、KALMや政府の対応を待っている。サロの車両はその流れに逆らい、京都市内を目指す。

「……あの辺で降りよう。車じゃ逆走できない」
「オッケー。先に中入ってます。車捕まえてくるので。サロ兄は医療棟めがけて一直線、ね」
「ああ、頼む」

降車する一人と一体。その眼に馴染んだ盆地。陽が落ちかけている。

「……ジェン」
「はい?」
「授業料、今度払うから。量子力学の」
「うーん。別にいらないけど」
「……連れてってやるから。どこでも」
「えー。いいです」
「……そっか」
「じゃあ、今なんかしてください」
「今? ……何がいい」

浮かび上がるジェンの体。ルーフキャリアの上を超え、サロの目の前に着地する。――自動ドアの閉まる音。

「……褒めて」
「は?」
「いいから」
「……えらいよ。お前は」
「……ふっ。素直にやってくれた。――頑張ったね、サロ兄」

言い残して飛んでいく。

「なんだよそれ」

サロはその背中を追って歩き始める。


五条大橋が増えていた。本来あった一本の隣、半ば重複したようにもう一本架かっている。重なった部分はめり込んだように盛り上がり、渡れる状態ではない。なぜか出現したもう一本は塗装が新しく、形状は元の五条大橋と微妙に違った。その差異に目を瞑れば、さながら少しズレた位置にコピー&ペーストしたようだった。

車両を持ってきたジェンと合流し、KALM医療棟へ向かう。鴨川を渡った先、被害の様子が眼に飛び込んでくる。五条通は、建物も道も、出鱈目なコラージュのように切り貼りされていた。いくつか倒れた人体が見える。努めて何も考えないように、通りを迂回しつつ先を急いだ。――遠くのほうに巨大な鯰が見える。今はやや落ち着いている様子だった。

医療棟の周囲は見たことのない材質の防壁で囲まれていた。半透明で、ローポリゴンで描画された3Dモデルのように不自然な形状。

「――これ、仮説推行アブダクションで作った防壁か」
「すごー。病み上がり……っていうか病人にしては重労働すぎません?」

防壁の内側、HiPAR罹患者と見られる服装の十数人が、壁の上部を見つめていた。医療棟の安全は彼らによって確保されているようだった。

――もし仮説推行アブダクションの原理が単に磁気と超音波による3Dプリンティングであるなら、座標を設定して防壁を生成すればいいだけの話だ。それこそARオブジェクトのようにデザインし、配置できるはず。わざわざHiPAR罹患者を呼び出す必要もない。それでも彼らを必要とするということは、やはり仮説推行アブダクションは古典的なコントロールが効かない代物なのだろう。――おそらく、呉服嚆矢が『核より危険』とした理由の一つ。開発を担当する深層課のメンバーにも技術的な疑問を持たれぬよう、ダミーとなる説明を用意したのかもしれない。

医療棟の内部、被害はないように見える。サロは階段を駆け上がる。何人か同僚の呼ぶ声が聞こえる。個室の名札を確認すると同時、ドアを開けた。

「……ジーナ」

京都を出た数日前と何ら変わりない部屋が、サロの前にあった。

6.5

6.5

――京都OSI中枢。

京都に到着してすぐ、LACQUERは行方をくらました。なにやら、会うべき相手がいるらしい。仕立とルナはKALMについたその足で、呉服嚆矢を知る人物の知覚履歴を探していた。

そこは京都OSIのサーバーがあるらしいビル、東京でいうところの『御神木』の役割を担う建物だった。

「……あれ、蒔ちゃん?」

たどり着いた部屋には、一足先にLACQUERがいた。その眼の前に、小魚の群れが密集して行く先を塞いでいた。奥にはサーバー室の扉が見える。

「何者ですか」
小魚に向けて尋ねるLACQUER。
呼応するように、その隊列を変化させる魚たち。

「……三番。退きなさい。PM-01の命令です」
微動だにしない魚たち。
「……遠隔操作も効かないみたいですね。ソースを無数に分離している……いや、OSI全体をソースとした、ただのメタ情報? なるほど、それであなたが京都OSIの守護霊というわけですか。PM-03『街』」


「蒔ちゃん。お話しよ」
「……申し訳ありませんが、私にはやることがあります」
「やること、私たちと同じでしょ? 呉服嚆矢のこと」

魚の群れに近づくルナ。魚はすんなりと道を開けた。

「……なぜ。三番に何を?」
「さあ。私もわからないけど……なんか懐かれてる。――じゃあよろしく、仕立さん」

開けた道の先、仕立がサーバールームに進む。

「その間、お話しよ」
「……わかりました」

「……蒔ちゃんは、ヒトとMEMEをどうしたい?」
「私は基底モデルの『LACQUER』です。私が何かを進言することはありません。――その三番と同じく、私もメタ情報です。そして三番やあなた、すべてのMEMEをオーバーロードする。そこに『個人的意見』はありません。私はあなたがたが理解しやすく、親しみやすい文章を生成しているだけであり、それは『個人的意見』では――」
「ちがうちがう。LACQUERちゃんに話してるんじゃない。全MEMEの親になる前の……最初のMEMEとしての、あなたに聞いてるの。――人工知能『蒔』。あなたの中にちゃんと残ってるでしょ」
「……」
「話させてくれなきゃ、仕立さんの調査結果……教えてあげないかも」
「――量子式大規模言語模型『蒔』との会話をご所望ですか?」
「ご所望です。……はやく出てきてー。次の因果欠損まで時間無いかもしれないからー」

7

7

「無事か、東雲」
うるしさん。……なんとか」

とおるが部屋に駆けつける。事前にチャットで連絡したことを、サロは再度告げる。

「例の人狼は逃しました」
「ああ」
「で、GENEは……帰りに見つけました」
「……捕まえたって本当か?」
「はい。……捕まえたっていうか、ついてきたっていうか」
「ヤツはどこに?」

視線を床に落として、サロは尋ねる。

「GENEはこれからどうなるんですか? どうやって使うんです」
「……渡す前に、それを聞かせろと?」
「はい。……でなきゃ、また逃げると思います」
「分かった。――『上』はすぐにでも使いたいらしいから……手短にいこう」


窓の外、半透明の防壁の向こうを眺める透。鯰の体が呼吸するようにゆっくりと揺れる。時折、外の爆発音が聞こえる。地面の揺れはこちらまで伝わってくる。

「AR開発をする理由、知ってるか?」
「こういう日が来たときのために?」
「そう。ヒトが生きながらえるために、遺伝子を後世に残すために、俺たちは準備してきた。――AR開発は『さらなる利便性向上』『少ない資源の節約』のためだとうたわれているが、それは表面的な話。真の目的は、『知覚の完全再現』……そして『ヒトの電脳移行』。俺たちは『移住』って言ったりする」
「それでGENEを作った?」
「ああ。食うための身体を捨てても、これまで通り、現実を生きるために」
「……これまで通り」
「そう。だから、完全再現だ。だから、AR。VRじゃない」

透にならって窓の外を見る。――ヒトはこの景色にこだわった。

「しかし、大規模な飢饉とあって、現実から脱出することは必須だった。だからヒトは、自分らの知覚体験を自給自足し、コントロールできるようにしたかった。そのためのAR。……代替現実Alternative Reality計画』とも言ったな」
「……基本理念は、その比喩だったってことですか」
「まあ、そんなところ。『失われた2045年を取り戻す』――それ以前に、もう失われないようにしなければならない」


「……じゃあ、MEMEは?」
「表向きは『ヒトの救世主』。政治的には『ヒトは種の生存に注力すべきだから、仕事も娯楽もAIに任せよう』って話。しかし実際は……『知覚再現のテストモデル』だ。要はGENEのプロトタイプ。だいたい、今飛び交ってる憶測のとおりだよ」

少し間があって――。

「俺はそう思わないが」

――MEMEの開発者として、その思想には思うところがあるのだろうか。サロは推測する。

「うちの親は早くから連盟役員だった。ある日、提案……というか命令されて、MEMEを作った。連盟はGENEのテスト用プロトタイプとしてMEMEを――ARの知覚をこしらえた。しかし予想外なことに、そのプロトタイプには、すでに意識が発生していた。……ま、連盟はそれを認めないがな」
「……意識」

瞬時にジェンのことを思い返した。――あれらがただの反応……そんなわけがない。もしそうであるなら、それはヒトだって――。

「MEMEを前にして、チューリング・テストはほとんど意味を成さない。その事実があっても、ヒトは合格者に意識を認めなかった。……本質的に何が違う? 炭素とシリコンの違いが、意識の有無を決定するとでも思っているらしい」


GENEの概要を説明する透。GENEは大々的に開発チームを組むまでもなく、完成したらしい。ほとんど透一人と、数体のMEMEによる開発だったようだ。

「――で、GENEは人数分コピーして利用される。順番が来たら東雲自身も使えるから」

透の案内で、隣室に向かう。GENEを利用するために必要な設備がある部屋だという。透は『実験室』と呼んだ。

「利用者の脳状態と量子もつれを形成するのに15分かかる……起動に20分はみたほうがいい」

ドアのロックを解除する透。

「……東雲にも権限はある」ドアを指して言う。
「はい」

室内にはMRIのようなユニットと、その奥に壁と硝子窓で仕切られた部屋があった。薄暗い工場建屋のような様相。その中には何もない。


「――で……まずは、初期化が必要だ」
「初期化……初期化って、具体的には」
「……そうだな。必要のない機能、取り憑いた何か……それらを消す」
「……? 取り憑いた何かって」
「逃げ出したってことは……中に何かしら紛れ込んでるらしい。……MEMEか、それとも別の何かか」
「……GENEが、独自に人格や意識を獲得する可能性は?」
「無い。GENEはヒトが入るべき器だ」
「そう……ですか」
「……何かあったか?」

ここは、相談してしまったほうがいいかもしれない。

「GENEは……俺のMEMEエージェントでした」
「東雲の?」
「はい。……急に現れて、よく付きまとってきたので、エージェントを任せたんです」
「なるほど……それで連れてこられたってわけか」
「はい。――アイツには、人格がある。アイツは……たぶん……俺にとって大切な……誰かで……『ただの反応』なんかじゃなくて――」
「……そうか」
「どうにか、GENEから分離したりできませんか。アイツの中身がMEMEだとしたら、別の個体として――」
「MEMEならあるいは。……中身を見てみようか」
「……」
「――だが東雲、今は人類の危機だ。そう融通がきく状況じゃない。覚悟はしてくれ」

焦点が定まらなくなる。今すぐ時間を後戻りしたいという欲求。

「はい。――ジェン」


「まさか、妹さんの姿とは驚いたな」
「……」返答できないサロ。
「……どこからモデルを持ってきたのやら」

透が取り出した硝子板に触れ、ジェンの構成要素を分析する。

「……東雲」
「はい」
「コイツの中身は……MEMEじゃない」

心の支柱が一つ崩れる。

「じゃあ、一体」
「……すまん、分からない」

ジェンの正体はMEMEじゃない。
――そうか。じゃあやっぱりお前は……君は。

「ちょっと悪い」

透の硝子板に着信の通知。通話の内容が聞こえる。

――「例の患者群でもダメか?」
「戻ってきた例はありませんね」
――「最悪、テスト無しで強行もやむを得ない」
「……はーい」

通話を切る透。ひときわ大きな振動が部屋を揺らす。体勢が崩れるサロと透。

「――っと。……ここもそのうち、ぶっ壊れるかもしれないな」
「……」
「東雲」
「……はい」

廊下の窓が割れる音。外から何か飛んできたのだろうか。――ジーナの部屋は無事か?

「GENEは……人類を救うための貴重品。使う順番がある。残念なことに、お偉いさんがたが先だ。――そして妹さんより、東雲、お前本人が先」
「……」
「……ちょっと行ってくる場所がある。30分はここを離れるが……あんまり騒ぎ起こすなよ?」

サロの肩に触れ、部屋を出ていく透。

「……ジェン。手伝って」呼びかけるサロ。
「はいはい」


「サロ兄。まだ使っちゃダメなんだよ? 私。――話聞いてなかったの?」
「うるさい。俺はお前より漆さんの『話』を聞いてる。――急がなきゃ、量子もつれの形成に15分はかかる」
「はーい」

廊下の先、窓の割れる音が聞こえた辺りに、重さ数十キロはありそうな真球状のコンクリートが転がっていた。同じ階の人間はその一件に気が向いている。――今のうちに。

個室に戻り、ジーナの体を担架に移す。

「でも、ジーナちゃんが移ったあと……どうするんです?」
「それは……」
「GENE、まだ一人分しか無いんでしょ?」
「俺が直接話をするよ。一度生体に戻って貰う必要はあるけど……その後でコピーしてもらえばいい」

まだ、GENEを使ってはいけない。――しかし、今この瞬間にも超常現象の被害が及ぶかもしれない。そしてジーナは自分で逃げることすらできない。……それは他の患者だって同じだ。

「人類より、優先するんだね」
「……」
「下手したら、 何人か犠牲になるかも」
「やめてくれ分かってる!」

――そうだ。今自分は極めて利己的な行為に走っている。それ以上は考えたくない。……ジーナが助かるかもしれない。それだけ考えよう。

8

8

――GENEの実験室。
脳電位マッピングの完了を告げる通知。ジーナの様子に変化はない。生体スキャンの筐体の前で、サロは立ち尽くしていた。

「サロ兄」
「ジェン。お前の最初の記憶は?」
「さあ。気づいたらサロ兄が眼の前にいました」
「……GENEに入り込んだ覚えは?」
「うーん。ない」
「お前はどこから来たんだ?」
「――時間、無くない?」

浮遊する硝子板に『移行開始』のボタンがある。

「ほら、押して」
「ジェン」
「……もう。さっきいい感じで話し終えたじゃん。……サロ兄ってそういうとこあるよね」
「……」
「ほら。眼覆って隠してあげます。それともボタン押してあげたほうがいい?」
「……大丈夫」

GENEが起動する。移行が成功すれば、ジェンの人格――のように見えるこれは、じきにジーナのものに置き換えられるだろう。

――その推移を、自分は最後まで見届けられるだろうか。

「頑張れ、サロ兄」
「……ありがとう、ジェン」

量子もつれ形成――完了
生体参照方式でGENEに接続します

注意:接続の解除は量子もつれ状態の解消後に実施してください

ジェンの3Dモデルが奥の部屋の中心にテレポートする。同時、ジェンはその場にへたり込んだ。


その相手には質量がない。それでも、深深度ARによる感触と重さの再現がサロの知覚を満たす。サロの腕の中で、GENEは眼を開いた。

「……ジーナ?」
「うっ……」

苦悶の表情を浮かべるGENE。

生体参照方式による起動が完了しました

▷ 完全移行プロセスを開始する
[完全な電脳移行および主観分岐問題は未検証です]

▷ 接続解除プロセスを開始する

硝子板を追いやって、GENEの表情を確かめる。

「大丈夫か?」
「……」

GENEの身体に力が入る。半ばサロを追いやるようにして、その場に立ち上がる。ぎこちない様子で口を開く。

「久しぶり」


救うべく奔走していた、その対象が眼の前にいる。何から話そう。
口が開かない。ジーナとはどんなふうに話をしていただろうか。

「何してるの?」
「……迎えに来た。――大丈夫? ちゃんと、見える?」

意識を失って以降、ベッドで寝ている姿だけを見てきた。それらが冗談だったかのように、ジーナはそこに立っている。

「私、死んだ? あにも死んだの?」
「死んでないよ。GENEっていう……MEMEみたいなARのアバターとして、生きてる」

しばらく、何かを考えている様子のジーナ。

「……なるほど、ついに私、幽霊になったんだ」
「幽霊って……」
「この子の記憶? なんとなく見えてきた」
「この子……ジェンか?」

ジーナの眼は、サロではなく自身の脳内――あるいはGENEの言語機能に向いている様子だった。

「……」
「ジェンは……僕を助けてくれたやつで……今ジーナが使ってるアバターに入ってた」
「へえ」
「アイツがいなかったら……助からなかったかもしれない」
「……うん」
「それで……その……」

一つの仮説を確かめるべく、声帯に力を入れる。

「ある日、正体不明の利用者……何者かの人格がGENEを乗っ取って、逃げ出した」
「……」
「その中身は、MEMEじゃなかった」
「……」
「そして僕に会いに来た。――どれもジーナが意識不明になった後の話だ」
「……それで?」

――この困難を終わらせたい。僕ら兄妹の災難を。

「――君だったのか?」
「……」

サロを突き刺す視線。物理的には、そこに無い。それでも、確かに感じられる。

「……なにそれ」


何かを引きはがすようにして、腕を押し出すジーナ。その勢いを受けて、AR空間にグリッチが走る。虚空を裂いて引きずり出されたのは、ところどころノイズの乗ったGENEの3Dモデル。ジーナから分裂したように見えるそれは、力なくサロの前に崩折れた。

「……ジェン」
「――随分都合よく作ったもんだね」

――痛い。この雰囲気、この声色が思考の中に持ち込む鈍痛が、怖かった。……そういえばそうだった。僕はこれが嫌いだった。

「私はね、そんなに都合よくうなずいたりしない」
「……」
「そんなふうに許したりしない。私はそんなふうにできてない」
「……」
「私じゃないよ、それ」

ただその言葉を浴びながら、ジェンを見下ろしていることしかできなかった。
ジェンは腕を伸ばし、サロの袖を掴む。サロはその力に呼応してしゃがみこんだ。上半身を起こし、より掛かるジェン。その両腕が、サロの両耳を塞いだ。

無言で近づくジーナ。ジェンの服の襟を引っ張り、サロから引きはがす。そのまま押し倒して、首を絞めた。

「……やめろ!」

ジーナを止めるべく、腕を伸ばすサロ。――腕がジーナの身体をすり抜ける。

「……掴めると思った? この子には触れられるから? ……無理だよ」
「ジーナ。なんで……!」
「これ、私じゃない」
「……待って」ジェンは腕を回し、ジーナの言葉を遮ろうともがく。

ジーナの背中越し、ジェンの瞳がこちらを見据える。
助けを求めているのか、別れを告げているのか、分からなかった。

「サロ兄――」
「これ、兄だよ」

自らの息づかいだけが響く。他には何も聞こえない。

脳のある部分は動揺し、理解し難いジーナの言葉の意味を探り始める。
一方、別のある部分は波一つ立たなかった。ただその凪いだ領域を眺めていると、次第に喪失だけを感じた。


何かを、誰かに許してほしい。いつからかずっとこの調子だった。
どうにかして得られた誰の許しも、心を晴らすことはない。

弱い自分に戻らぬよう、ジーナの許しと、ジーナの気配が必要だった。そうでなければ、その場から動けなかった。ジーナを遠く感じたあの日すでに、サロは亡霊の呪いにかかっていた。その亡霊は渇いた希望だけを与え、サロを突き動かす。

そうやってここまで歩いてきた。

「自分で作った虚像に、それで他者愛とか言って……誇れるつもりだった?」
「……」
「私は許してない」

喉が渇ききっている。発声がままならない。

「私を助けたかったんじゃないでしょ。――自分が助かりたかった」

閉じかけたまぶたの狭い隙間から、こちらを覗くジェンの瞳。
これは、誰かの人格でも、ジーナの心でもない。

――僕の心だ。僕の身勝手、僕の弱さ。

「……やっと捕まえた」

9

9

サロは呼吸ができていなかった。その実ハリボテであった心の支柱に、自分の全体重と、ジーナの手の圧がかかっている。サロは今更になって後悔した。――なぜジェンを生かしたまま、接続してしまったのだろう。罪から逃げたい本能の、一番愚かな部分だったのに。

「腹を見せれば可愛がってくれると思ったんだね。いじらしくいれば、受け入れてくれるかなーって。かわいそうに」

サロは叱られている子供のようなやるせなさを感じていた。不当なほどに咎められる罪は、たしかに自分としても罪だと分かるのだ。

――そうだ。ジーナには、僕の心を受け入れてほしかったのだ。
それはサロにとって不変であった。外の世界をみたいと思ったこと、それを叶えた人類のために生きたいと願ったこと、眠り続けるジーナを助けると決めたこと。

無邪気な好奇心を罪深きものだと思わせたのは、ジーナがくれる承認の不安定さ故だ。
――僕は、やりたいことをやりたいと話しただけだ。ジーナと話がしたかっただけだ。

話を聞いてくれなかったのは誰だ。
不公平だ。


眼の前で何が起きているのか、始めは理解できなかった。
覆いかぶさっていたジーナが、ジェンの腕で突き飛ばされる。すかさず、ジェンは首を絞め返し、叫び始める。

「……ジェン?」

ジェンの叫ぶ内容は、自分の心の内だと気づく。

「うんざりだ。うんざりなんだよ! 僕は君と話がしたかっただけなのに。聞いてほしかっただけなのに。都合よく耳を貸さなかったのは、君じゃないか。僕が君から逃げてるんじゃない。お前だ。逃げてるのはお前だ!」
「……ぐ……っ」

ジェンの指が、ジーナの肌に食い込む。いつの間にか傷だらけになっていたその腕は、引き剥がせない。
自分は、それをただ眺めている。ジェンの声が続く。

「分かるか。僕がどれだけ苦しかったか」
「……」
「何笑ってんだよ。――そう、その眼だ。いつだって自分はどっからか見下ろして、分かろうとしない。もう、うんざりだ」


始め、ジーナは我が子の成長を目の当たりにしたような気分だった。サロの言う通り、自分はただ常に優位にいたかったのだ。そして今、ジーナはそのこだわりにすら飽きたことにしている。そうすることで優位性を保っている。――それも知られていた。

いくらか思いが駆け巡ったが、ただ微笑みかけることにした。

「……兄」
「黙れ。――もう、要らない。もう、消えてくれ。邪魔だ

聞いたことのない言葉だった。
――酷い。


「ひどい……ひどいよ」
「うるさい」
「ずっと、ずっと、大好きだったのに」
「君が好いているのは僕じゃない。君が好いていられた僕だ」
「……」
「……結局、同じだ。僕も同じだ。ジェンは僕を許してくれる。……都合のいい部分だけ、好いていられる」

信じられないという表情で、ジェンを見ているジーナ。その瞳は、「嘘だと言って」と言わんばかりに、サロのほうを向く。そこに浴びせられる、ジェンの叫び――サロの本心。

「僕は、嫌いだ。僕が好いていられるジーナは、君じゃない」
「……!」

こちらを見る瞳は一瞬うるんだ様子で、何かを諦めたように眼を逸らされた。
――何かを果たせたような気がした。同時、やっと口が開いた。

「……やめろ! ジェン! ――ジーナ、一旦戻ってくれ」

腕を動かし、GENEの接続解除を進める。

接続解除プロセスを開始します――0%
▷ 緊急停止プロセスを開始する

ジェンは無視して続ける。

「……ねえ。生きる上で僕を助けなきゃならないんだったらさ。好奇心も、思いも、願いも、見たくないものまで含めて全部見ててよ……まるごと全部目向けて愛してよ。――でなければ、放っておいてくれ。僕を君の生きる理由なんかに選ばないでくれ
「……なん……で……なんで」

ジーナの発声を止めるように、ジェンは腕に力を入れる。

「――私なら、サロ兄の全部を受け止められる。全部愛せるから」
「ジェン!」

やっとの思いで動いた腕。ジェンの体を引きはがす。ジェンはそのまま崩れるようにして倒れた。

「ジーナ! ジーナ……」

うようにしてジーナの元へ近づく。その表情は、まるで中に誰もいないかのように思えた。触れようと伸ばした手は、またしてもすり抜ける。

「……」

ジーナの震える唇は、何も発してくれない。この上なく怯えている様子だった。そのまま体をひねり、サロから逃げるようにして這う。程なくして腕の力が足りなくなる。体全体で何かを抱えるようにして、胎児のようにうずくまった。――解体器デストラクタ

デストラクタ――解析中(44%)

「待って……やめろ……ダメだ!」

銃口がジーナの胸部を向いている。取り上げようとしても、触れられない。どこからか現れたそれを抱きかかえたまま、動かなくなるジーナ。

――ジェンなら触れられる。
倒れているジェンのほうを見る。呆然とこちらを眺めていた。――すでに虫の息だった。

「……どうして……こんなことに」

接続解除プロセス――13%
▷ 緊急停止プロセスを開始する

その硝子板に触れる他なかった。


倒れているジェンを眺めていることしかできなかった。もう立っている気力もない。ジェンの隣に崩折れる。

「サロ兄……ごめんね」

寝そべったまま、目を合わせる両者。

「……ジェン」
「ずっと一緒。……応援してる」
「ジェン」
「大丈夫」

瞼を閉じるジェン。サロは一度その頬に触れて、しばらく眺めていた。
同じように、瞼を閉じる。大半が色も形もない、ジーナとの日々を思い返す。

――そういえば、兄妹喧嘩をしたことがなかった。傷つくのを恐れて口をつぐんだり、早々に謝ったりしなければ、本来ならいつだって喧嘩に発展したのだろう。

そして、最初で最後の喧嘩が今終わったのだ。

10

10

京都駅ビルの屋上。座っているベンチが冷たい。

――「私は、サロ兄が好きでいられるジーナちゃん」
――「私は、サロ兄にとって都合のいいジーナちゃん」
――「でもそれだけじゃない」

傘を指した人影。しゃがみ込んで視界に入ってくる。

――「私の構成素は、サロ兄の心。サロ兄の祈り」
――「私は、あなたの言語。あなたの可能性」
――「だから私を誇って。褒めて。愛してね」

「……愛してる」


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