3:晴れ上がり
3:晴れ上がり

3:晴れ上がり

絶滅思考の人類を載せた方舟は、漂流の末、地平線に新大陸を見る。
今度こそ、幻視でも蜃気楼でもない。
しかしそこには先住民がいて、港からこちらを睨みつけている。

共存の道があるかは分からない。ただ、すでに人類は眼前の夢に依存しすぎている。

TAME - 3 / Hareagari

3-1
亡霊

あに。もう寝る時間だよ」
サロはしばしこれに応答するかどうか迷った。

「ねえ」
「……うるさい。あんたの兄じゃない」
「ひっど。可哀想なジーナちゃん」
背後から近づく声に振り向く。
ジーナの見た目をした亡霊は、薄ら笑いを浮かべている。胸ぐらを掴めるならばそうしたかった。

「ジーナはもういない。消えてくれ」
「じゃあ私は誰」
「知らん」
作業に戻るサロ。最近よく纏わり付いてくるこの亡霊は、ニュースが連日報道するOSIの不具合――幽霊事件まがいのイタズラだろう。
自室でも、仕事場でも、所構わず現れるので、サロは随分迷惑している。

「はあ。そんなに私のことが嫌いなら、DiVARディヴァオフにすればいいじゃん」
「……同意だね。『眼』を使うこの仕事さえ終われば」
「何、それ。何の仕事? 邪魔したいね」

やはり、この亡霊には構わないほうがいい。言い草ひとつとっても、ジーナを思い出してしまう。無視を続けると、つまらないと言って去る。いつもはそうだったが、今回は違った。

「許してあげない」

去り際のセリフは、最後に聞いたジーナの声にそっくりだった。
一度潜ってしまえば簡単には浮上できない記憶の海に、サロは今日も突き落とされる。

3-2
続く日々

――KALM 技術部 接続医療課

KALMコームに勤めて1年が経とうとしていた。
同僚にワーカホリックを心配されるほど、サロは仕事にのめり込んでいた。

ジーナのいる病院と仕事場を往復する毎日。
あの日、ジーナは昏睡状態となり、今でも意識が戻らない。ジーナは典型的な高圧AR症候群――HiPARハイパー患者であった。HiPARは、現実、幻覚、ARの区別がつかなくなる症状の総称である。意識障害に陥ったHiPAR罹患者の意識が戻った例はない。ジーナの回復は絶望的に思われた。
サロはこの診断を信じることができなかった。ジーナは、そこまで深深度のAR――高精細なARを利用していないはずだった。

同じくHiPAR罹患が疑われたサロだったが、DiVARの強制終了により、幻視症状はすぐに治まった。退院したは良いものの、DiVARの不要不急の起動にはドクターストップがかかった。サロとしても、もうDiVARを使うのはうんざりだった。


しばらくの間、なるべくDiVARを使わずに生活していたサロ。上司から思わぬ提案を受ける。

「……東雲。俺だ」
うるしさん」

とおるはサロが所属する『接続医療課』の隣、新型OSIの開発を担う『OSI-4.0課』の課長である。透は生まれながらにして耳が聞こえない。初め、眼の見えないサロとのコミュニケーションは困難を極めたが、この街の技術がそれを可能にした。透は発声がおぼつかないため、発声補助器を用いて発言する。発言内容は脳波を元に構成するらしい。口元が動かないことを除いて、合成音声で話しているとは思えないほど自然な発声をする。眼は見えるため、相手の発言を元に表示されるARの字幕を読むことで話を『聞く』。
サロのほうは、普段どおり会話をするだけで済んだ。

「KALMの権限がどれくらいか、分かるか」
「裁判所や警察――ほとんどの組織を相手に、無条件の情報開示請求を出せる」
「そうだ。それをやった。君も知っての通り、HiPARは社会問題になってる。解決の糸口を探すのに、必要だった」
「何を言いたいんです?」
「君の傷をえぐりたいわけじゃ――」
「どうぞえぐってください。僕は人類の役に立てるのなら、何だっていい」

サロは、心の海底に沈んだ暗い感情の引き上げ方を忘れていた。

「分かった」
「ちょっと待ってください……ジーナのことですよね」
「ああ」
「……聞かせてください」

サロは耳を澄ませた。
願わくは、この人の言葉が僕の傷をえぐり、かつての間違いを、僕の罪を指し示してくれますように。

3-3
ジーナ、目的

透の提案により、サロのDiVARは息を吹き返していた。

新しい校正キャリブレーション先は、OSI。この街全体の――OSIに接続している全員の五感入力、その平均値であった。DiVARにこのようなキャリブレーションは想定されておらず、OSIの運営・開発元であるKALM技術部だからこそできる、実験的な運用だった。
DiVARの調子はすこぶる良かった。以前よりも解像度が増し、応答速度も改善した。

同時に、京都で稼働していた OSI-1.1『IDEALイデアル』は、最新の中国製 OSI-3.0『HuanShiフアンシー』へとアップデートされた。HuanShiの特徴は、接続者全員の五感入力を平均した『ARの正しい見え方――基底観測系』をメインシステムに採用した点にある。これにより、HiPARの罹患率が改善される見通しだった。


透曰く、今のサロは世界的にみて希少な存在らしい。
2143年現在、HiPAR患者が意識障害に陥ったのち、回復した例はない。また、HiPARの幻視症状が寛解した例もない。一度HiPARになってしまえば、症状は悪化の一途をたどる。
サロはその例外であった。キャリブレーションを介してジーナの症状が感染うつってしまったものの、DiVARの強制終了と再校正によって、それを無かったことにしている。見方によっては、寛解した唯一のHiPAR患者であった。

サロの経験を研究することで、社会問題であるHiPARの原因が分かるかもしれない。サロは、自らのDiVARに記録されている全ての入出力履歴を開示することを受諾した。ジーナとの会話を始め、そこにはDiVAR起動中に経験した全ての五感情報が含まれていた。
同時に、街のOSIに記録されていたジーナ側の五感情報も開示されることとなった。サロはこのことに関して、いつか必ず面と向かってジーナに謝ろうと心に誓った。


「驚いたよ。東雲。こんなの見たことない」
「なんです?」
「君たちの校正結果、寸分の狂いもない。誤差は0.0002%だった」
「それは、つまり……?」
「君たち兄妹は、最初から最後まで同じものを見ていたってことだ」

サロは何を思っていいのか分からなかった。
同じものを見ていた。それは果たしてホントだろうか。ホントであるならば、なぜ僕はジーナを助けられなかったのだろうか。0.0002%はきっと、見ることをやめたあのときの、瞬きの分だ。

こんなに致命的な誤差を孕む視野であったのなら、初めから所望したりしなかった。
サロは海面に飛び込み、己の罪の輪郭に触れる。

そうか。
ジーナは、僕の罪深き好奇心の犠牲者だ。

「ただ――B-OSって分かるか?」
基底観測系Base - Observing System。この街の現実、皆の総意思」
「そう、それ。B-OSとの乖離も規格外だった」
「どのくらいだったんです」
「7800%」
「……HiPAR患者と、基底との乖離率って、普通」
「200%ほどだそうだ。……そう、そこまでこの街の現実から乖離していてなお、君たちは――」
「あの日は――」

言いかけて、続きが出てこない。代わりに出てくるのは嗚咽だった。結末を知るサロにとって、その時間を思い出すことは自傷以外の何事でもなかった。

どうやら、ジーナによるキャリブレーションは完璧だったらしい。ジーナの心の叫びは、たったひとりこの街の次元から剥離して浮かび、誰にも知られず、それでもサロにだけは聞こえていた。ジーナには何を言うべきだろうか。謝るべきなのだろうか。それらを伝えられないのは誰のせいだろうか。サロは久しぶりに自らの心の海底まで潜ることができた。
瞼の裏に貼りついたモノクロの静止画が、色を得て動き出す。

「あの日は、あの病室は、僕らにとって紛れもなく……現実だった……」

透はサロの背中に二度触れて、部屋を後にした。
透が置いていった、ARの電子報告書が見える。

『東雲サロ・東雲ジーナの校正履歴』
……
P-B乖離率 7798.3% /P-M乖離率 0.0002%
結論:二名のHiPAR罹患者、東雲サロおよび東雲ジーナの観測系は、当該日において全く同様の現実を観測している。校正を怠った形跡はなく、むしろこれほどまでに精度の高い校正は他に例がない。加えて、校正先である東雲ジーナに深深度ARの利用履歴は無い。これは、現行の法律、OSI-1.1 IDEAL、五感補助システム Direct-View AR、ひいてはKALMに重大な不備あるいは不足があることを示しており、今後これに対応しないことは、国際AR連盟加盟団体および因果欠損を経験した人類種として、明らかな故意による犯罪である。過失では済まされません。局長。

「ジーナ」

小さく、声がこぼれ落ちる。嗚咽混じりに一人つぶやく。ジーナに向けて呼びかけたのも、久しぶりだった。随分と動いていない顔の筋肉が、笑い慣れていないようだった。

「明らかな、故意、犯罪だってさ。笑えるよね。人類は、僕らを置いていったりしない。僕は、君を置いてきてしまった。……僕はどうしていればよかった?」

全盲で生まれ、思い焦がれた外界は、途中で飽きることなくサロに応答し続けてくれた。この応答は、まるで宇宙がそうできているかのように、一つの物理法則であるかのように、またしてもサロのもとへと届く。
これまで一度たりとも自分を置いていったりしなかった人類のことを、世界と自分とを繋いでくれたジーナのことを、サロは何より愛していた。

サロはやはり、両者のことが好きだった。


もう1部、別の書類があることに気づく。

廃都市『東京AL』調査班 起用推薦名簿


起案、推薦者:技術部 OSI-4.0課 漆透
摘要:2130年、エリア深度5.4相当の大規模異常共振を引き起こし、立入禁止となった『東京AL』および隔離当時東京ALにて運営されていた『OSI-2.0 MAKI』の調査に際して、基本理念遂行、HiPARの原因究明のため、人員の追加を求める。

被推薦者リスト:  

  1. 技術部 接続医療課 『東雲サロ』  

「……僕は、君を置いていったりできない」

サロの心は、人類とジーナによって育まれた。
両者を救うのが、子としての責務であった。

「迎えに行くよ。ジーナ」

虚空に向けて一言。言わせたのは誰だろうか。それを言うに足る価値と責任を遂行することでしか、サロはもうこの生を喜べない。次の目的地へ向けて歩き出す自らの虚像を見つけ、縋り、それを模倣する。かつてのジーナに一番近い位置で、サロは既に、乾いた希望に憑かれていた。

その希望は、ジーナを蝕んだ『存在理由』とは少し違った。
存在の目的を患ったサロに停滞は許されず、歩き続けなければならない。

3-4
再会のはじめまして

 … 

 12. 生活安全部 HiPAR対策課 『松島タグ』  
 13. 運営部 PM監視課 除霊2係 『白浜ルナ』 

「ルナ?」
その名前には、見覚えがあった。

後日、サロは廃都市『東京拡張層東京AL』の調査を正式に命じられた。


東京AL調査の前日、サロは事務所で準備に追われていた。

「東雲。漆さんが呼んでる」
「すぐ行きます」
「……なあ、東雲。あんた漆さんに何かされたのか? 日に日に雰囲気が似てきてるぞ」
「俺が、漆さんに、ですか」
「それ。それだよ。なんだよ俺って。前はもっと大人しくてかわいい感じだったのに」
「かわいいとか。やめてください」
「いや、入職当時、割と話題になってたぞ。かわいいって」
「はあ。それは残念でしたね。悲しいかな、変わっちゃうんですね、人って」


透は席にいなかった。それどころか、OSI-4.0課の職員は全員不在のようだった。
透のデスクの上、ARオブジェクトが浮いている。文書を管理しているドライブのようだった。普通、本人がいないところに個人所有のオブジェクトが表示されることはない。これは透の所有物ではないらしい。

「覗いちゃおうよ」

振り向きたくなかった。もう聞こえないはずの声、もう見えないはずの姿。
亡霊の腕がサロの首に絡みつく。

「久しぶり。元気にしてた? 兄」

とっさに、透に言われたことを思い出す。
「AR深度って尺度は知ってるよな。最近あれ、OSIのアップデートで改定されて、しかも個人ごとに測れるようになった。君ら兄妹が幻覚の海に沈んだあの日、二人が観測していたARの強さ――現実からの拡張度合いを、『depth 5.0』と再定義した。他のOSI運営機関も、AR-I/FARインターフェース開発企業も、これを採用することになった。この値が3.0を超えなければ、まず安心していい。皆と同じものがちゃんと見えてるってことだ」

- Current depth -
2.2

視野に表示されている『現在深度』は正常値を示している。すなわち、これは幻覚ではない。

「なにそれ? 頭の上に浮かんでる。5.5?」
「2.2だ。あんたには関係ないだろ」

サロのDiVARはOSIと完全に同期している。この数値は、そのまま街のエリア深度――京都市内にいる全員の平均AR深度を表している。
この亡霊は、この街の皆に見ることのできる、『ただのARオブジェクト』である。そうと分かれば、何も怖いものはない。サロは落ち着きを取り戻す。

「まあいい。何のようだ。ジ――」
「ん? 今、呼んでくれた? ジーナって呼んでくれた?」
「ジーナまがい」
「なにそれ。ふざけてんの? ……どっちが苗字?」
「『まがい』はニセモノって意味だ」
「うっさ」

部屋の外の足音に気づくサロ。サロには、これが透の足音だと分かる。

「隠れろ、まがい」
「名前で呼んで。もしくはつけて」
「は!?」
「名前、つけて」
「まがいでいいだろ」
「一文字目は『G』がいい」
「あとでちゃんと考えるから、はやく」
「はやくして」
呆れる時間もない。
「……ジー、ジ……ジェ……ジェン?」

「うん。はじめまして。またね」

3-5
ジェン

「すまん、東雲! 遅くなった」
「い、いえ。いま来たばかりです」
「そっか。……あれ、デスクじゃなかったか」
「え?」
「いや、自分のデスクに置いてきたつもりだったんだ。大事な書類」

「それならここに」と言いかけて、さっきまで表示されていたオブジェクトが消えていることに気づく。

「えーっと、それって見られるとマズい?」
「うん。非常に。置いてなかったか?」

まさか、ジェンが持っていったのだろうか。
サロは自分の額の冷や汗を、ARメイクで隠した。ARメイクを使うのは初めてだった。

「……ええ、何も」
「そうか。……なんか、やけに顔白くないか?」
「貧血で」
「明日から出張だろ? 体調悪いなら班長に言っておくけど」
「いえ、絶対行きますんで。東京」
「無理すんなよ? ま、もし見つけたら教えてくれ」
「中身は何なんです?」

あえて、尋ねてみた。好奇心旺盛な東雲サロは、平常時でもこうしたはずだ。

「うーん。仮に、だ。誰かが俺より先に見つけたとして、それを読まれたとしても仕方がないと思うんだ。……どう思う?」
「その誰かが、局長だったら?」
「即刻クビ」
「……っていうか、ARオブジェクトって数分放置したら元の所有者のところに戻りますよね」
「御名答。そして、もう戻った。残念だったな、東雲君」

これ見よがしにインベントリを展開して見せつけてくる透。電子書類の平面アイコンが3次元で散らかっている。これでは、この人の自室も同様に散らかっているだろうし、書類もよく失くすことだろう。実際サロのこの推測は間違っていない。

「えーっと。どれです?」
「あー。アレだ。ありゃKALMのお偉方が管理してるオブジェクトだった。あっちに戻ったな。ここにはない」
「……ん? マズくないですか?」
「非常に。ごめん、ちょっと局長のとこ行ってくる。呼び出しといて悪いんだが、後でチャットするわ」
「ええ。どうかご無事で……」


「おい。いるんだろ。まがい」

応答が来ないことは予測できた。

「ジ、ジェン。出てこい」
「お呼びですか、御兄様」
「消えてくれ」
「かしこまりました。あと、『ジェン』って、頭文字『G』じゃなくて『J』でした。遺憾です。さよなら」

数秒後、虚空から声が聞こえてくる。

「でもー、いいんですかー? 漆先輩が置いてったアレ、見たくないんですかー?」
「……お前、やっぱり盗んできたのか」
「違いますよー。読んできたんです。個人ドライブという名の私の記憶に残っています。アレ、めちゃ面白かったです」
「お前、ARオブジェクトだろ。……見たところ、自立AIも積んでるみたいだけど。個人ドライブまで持ってるのか」
「御名答! 全問正解。巷では『MEMEミーム』とも呼ばれますねー」
「どうりで、急に俺の前に現れたわけか。……お前、ちゃんとニュース見てるか? 飼い主のいないMEME人工知能ARは、今じゃ皆おたずね者だ。除霊されても知らないぞ」
「知ってますよ、そのくらい。バカなんですか?」

返す気力もなくなるサロ。ややあって、ジェンが思い立ったようにサロを見る。

「……あ、そうか。そうだ! 飼って。飼ってください! テイムミー! それで全部解決!」

「嫌だよ! あとあんまりそういう事を大声で言うなよ。次やったら言いつけるからな。PMパブリックミーム監視課に同期がいるんだ」
「えぇ……除霊係にだけは連れてかないでくださいね」
「……素行次第だな」
「記憶、開示するので。コピー、してきたので」
「まあ見せな」

東京AL出張を目前に控えて、サロは一つの真相に手をかける。


災害報告書……リコンタクト?」
「やばいっすよ、これ。ぜひ読んでみて。ぜひ」
「なあ……お前、口調、それで行くのか?」
「何? ジーナちゃん風が好み?」
「……やめな。さっきのでいいよ」
「承知です、サロ兄」
「その呼び方は……まあ、いいか。後ろ、見張っててくれ」

こいつは、ジェンは、ジーナと全然似ていない。そのはずが、サロはジェンとの会話に郷愁を覚える。以前、僕の眼が見えなかった頃、暗闇の中にいた僕に、飽きもせず応答してくれた架空の人物は、妄想の中にいたその人は、確かこんな話し方をしていた。

「おまかせを。あ、パスワードかけといたので。何だと思います?」
「『Gina』だろ。分かるわ、お前の意地悪い性格くらい」

心拍数が上がるのが分かる。サロは息をフッと短く吐き、自分を奮いたたせる。
大丈夫、僕には、この街がある。ジーナがいる。
大丈夫、俺には、仲間がいる。やることがある。もうこの眼が何を見ていたって、殆ど関係がない。

まだ、歩いていられる。
ジーナの許しが、いつかこの目的を殺してしまうまでは。

「……東京まで付いてくるか? ジェン」

TAME 終


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